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橋本治『ひらがな日本美術史 (7)』 ~いよいよ期待膨らむ最終巻 !  第7巻は、すでに豊かに達成している日本絵画をどのように再び完成すれば良いか(これが重要)に悩む、明治・大正・昭和の画家たちを描き、全巻に係る作者の主張が出た魅力ある最終巻でした。

 寒い桜雪の話題が聞かれますが、こうなると気億劫で、「・・別に用事も無いのに外に行かなっくても・・」と、例によって書斎に籠もります。
 今、鴨長明「方丈記」を読んでいます。梓澤要「方丈の弧月 鴨長明伝」を読む予習の意味です。小説を読むために古典をひもとくのは、逆のようですが、梓澤要の作品は、手強いので・・。
 あと、「ラファエル前派兄弟団」と「ギュスターブ・モロー」の美術展に行くので、これも、予習しています。前者は、明日、日生劇場の講演会の前に寄るつもりです。

 さて、本題です・・・、

 きょうの、この書は、話が、あっちに行ったり、こっちに行ったりして、また、平気で「へた」とか、「優れたものとは思わない」、「意外とどうってことのない作品」などと言う感想が述べられていて、びっくりすると言うか、魅力の一つでもあります。

橋本治『ひらがな日本美術史 (7)』(新潮社)

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 この巻は、既に既刊を通して感じて来たように、日本絵画は、既に、近代以前に豊かに達成されている、写生だってきちんと出来ている、だから、(ここが重要です。)一度完成したものを、どうやって再び完成して行くか・・が主な問題意識、テーマになっています。
 通論で、平板に、7巻まで、良い絵を紹介・説明して来ているのでは無いことを、改めて気づき、確認しておく必要があります。
 したがって、この巻も、横山大観、岡倉天心、菱田春草など、〈尋常〉な大家は、登場しません。

 ですから、例えば、35歳で死んだ、今村紫紅(しこう。本名・寿三郎。1880・M13-1916・T5)の「熱国之巻」(1914・T3)、その20メートルに及ぶ日本画の絵巻物の記述には熱い感慨の様なものが感じられます。

(以下、下記の「続きを読む」をワン・クリックしてお読みください。)


 勿論、歴史的に、1887年に、東京美術学校が出来たこと、画壇で西洋画と日本画の確執があること、特に、日本美術の伝統に返ろうとした岡倉天心や横山大観を巡っての絵画界の動きには触れないわけにはいけません。

 さて、まずは、第7巻は、明治の浮世絵として、26歳で、脚気衝心(かっけしょうしん)で夭折した、井上安治(1864・M元-1889・M22)から始まります。
 明治維新の4年前に、浅草呉服商の家に生まれた、安治は「寂しさを実感した時、人は近代人となる」という橋本治の物差しにピタリと当てはまる版画家です。

 月岡芳年(1839-1892・M25)を経て、17歳年上で、「光版画」の、小林清親(1847-1915・T4)の弟子となり、17歳でデビューします。
 師を凌ぐほどの、東京名所絵シリーズの、例えば、「千住ラシャ製造場」(1881-89)の立体感は、まさに、新しい明治に相応しい版画です。

 維新時41歳だった、高橋由一(ゆいち。1828ー1894・M27)は、佐野藩士の子として生まれ、独学で、「鮭」(1877)などを描きます。旧幕府であっても、反西洋ではありません。

 1877年と言えば、先の、井上安治が小林清親に弟子入りする1年前になります。さらに言えば、狩野芳崖(1828-1888・M21)が生まれた同じ年に、高橋由一は生まれています。
 また、1873年(M6)に、「天画楼」(のち、天画舎。天絵学舎)を開いていますが、1872という年には、モネが〈印象 日の出〉を描いた年ではあります。

 この時代、西洋画は、政府によって、工部美術学校として推進されたと思えば、7年で廃校(1883(M16))されて、フェノロサ、岡倉天心によって、伝統に根ざした新しい日本画が推進され(伝統美術の復権)、西洋画を持たない、東京美術学校をスタートさせた。
 かと思えば、明治美術会から白馬会の西洋画ルートや、東京美術学校西洋画科が設立されたり、目まぐるしく動きました。

 その一方、その日本画は、優れた技法を使って新しい画材を探したのでは無く、かつての画題を明治流の技法で再構築した・・従って過剰さのある絵となる・・ものとなり、工芸品の類いも多くが装飾過剰の域になって行きました。
 先の狩野芳崖は、長州の御用絵師の出でありながら、廃藩置県で出世は望めず、1882年(工部美術学校が廃校された前年)にフェノロサらと邂逅し、〈古い世代の優等生〉のままでした。

 西洋画(油絵)として、先の様々な動きの中で、どうにか始まりと言えるのが、黒田清輝(1840-1900・M33)です。

 薩摩藩士の家系で、自らも、子爵、貴族院議員、東京美術学校西洋画科初代教授、帝室技芸院、帝国美術院院長で、先の、白馬会第二回に出展した、「湖畔」は、〈紫派〉と言われました。
 しかし、「湖畔」に紫が遣われていることを、きちんと見抜くほど、当時の西洋画界は進歩していて、五姓田義松山本芳翠、浅井忠らの逸材がいたわけです。
 黒田清隆も、1884(M17)年、19歳で法律の勉強に行ったのが、山本芳翠(1850-1906・M39)にパリで出会って、画家に転向したという事実もあります。

 白馬会、と言えば、第8回白馬賞を受賞したのが、青木繁(22歳。なお、1882-1911・M44)の「黄泉比良坂」(1903・M36)です。
 ちょうど、久留米の生家が没落した頃にあたります。23歳で東京美術学校西洋画科を卒業し、有名な「海の幸」(1904・M37)を描き、この頃、梅田たねを妊娠させて、男の子を生ませます。
 26歳で、父の死す頃、「わだつみのいろこの家」(1907・M40)を描き博覧会に出展し、2,500円の値を自分で付けましたが、3等で、失意の内に九州に帰りますが、結核で30歳で死にました。20代で開花した、不遇の早咲きでした。

 青木繁は、19歳で、東京美術学校西洋画科に入学していますが、その頃、高村光太郎(本来は、「みつたろう」と読ませます。1883・M16-1956・S31)が16歳で本科に入っています。岡倉天心らが〈追放〉された時です。
 同校彫刻科教師であった父の高村光雲(1852-1934・S9。1897(M30)年に、上野の西郷隆盛像製作)も、光太郎も辞めますが、やがて復帰し、光太郎の方は、明治38年に西洋画科に再入学しています。
 彫刻家としてだけで無く、詩人(「道程」は32歳。この年に智恵子と結婚しています。
 因みに、この年、後述の川端龍子は、洋画から日本画に転向しています。また、今村紫紅が「熱国の巻」を描きました。)、さらには、評論もものにしています。

 西洋画科に入ったのは、ロダンの彫刻、と言うよりもロダンに憧れたのですが、西洋彫刻科が無いので、西洋画を選んだとか。裕福なモラトリアム生活の6年後、彫刻作品、「手」、「蝉」、「鯰(なまず)」、「柘榴(ざくろ)」などを仕上げました。

 青木繁が、死んだ翌年、高村光太郎は、岸田劉生と「フュウザン会」(フュウザンとは、西洋画のデッサンに使う木炭のことです。)を創っています。光太郎30歳、劉生22歳です。
 岸田劉生は、父親が、銀座の有名な薬局を経営していましたが、劉生、15歳の時に死んでいます。「フュウザン会」は、2年(大正2年)で解散しますが、その2年後(25歳)に、「切通之写生」(1915・T4)を、さらに、6年後、「麗子微笑」を描きます。

 大正の光太郎よりも2歳下、明治の青木繁よりも3歳下なのが、昭和の、川端龍子(りゅうし。1885-1966)。
 ヘンなものをオーソドックスに描く、つまり、技法が尋常で意図がヘンな、時代のメインから取り残された狩野山雪(1590-1651)に似た、一種、奇想の画家とも言えます。
 その〈意図〉とは、〈してやったり〉の〈功名心〉があるかも知れません。40代で開花した刻苦勉励の画家でもあります。

 こちらは、美大出では無く、19歳から新聞社の挿絵画家となり、20歳から洋画を描き、29歳の時は米国にも行っていますが、30歳(1914・T3)の時に日本画に転向しました。
 44歳(1928・S3)の時には、院展をイビリ出されましたが、自ら、会場芸術を標榜した美術団体・青龍社を結成しています。
 66歳の「金閣炎上」(1950・S25)、67歳の「夢」などインパクトがあります。

 大正期の竹久夢二(1884・M17-1934・S9)、梶原緋佐子(1896-1988・S63の美人画になります。

 夢二の〈たゆとう感情〉に立脚した、また、ぼんやりしている女を描いている美人画と、
緋佐子の「美人」画では無い美人画の魅力、という分析が首肯できます。
 なお、夢二は、先の「白馬会」洋画研究所に通っていました。因みに、日本橋で「港屋」という所謂キャラクター・ショップを開業しました(1914(T3))、また、最初の妻は、絵はがき屋でした。

 さらには、8歳年上の川上澄生(1895・M28-1972・S47)の「初夏の風」に感動して版画の道に進むことになった、棟方志功(1903・M36-1975・S50)は、後年m「板」画に変わって行きます(「萬朶譜(ばんだふ)」から)。

 さらに、
谷内六郎(1921・T10-1981・S56)や六浦光雄(1913・T2-1969・S44)
になります。

 最後に、表紙が、1964年オリンピックのポスターなので、このあたりの持論が聞けるかと楽しみにして、まず、その頁から読みましたが、それは、あまりありませんでした。時節柄、どうしても、ある種の期待が大きくなってしまったかもしれません。

 「ひらがな日本美術史」は、素晴らしい書物です。これを読んで、日本美術への関心がぐっと広がりました。

 明日は、冒頭に触れましたが、日生劇場の「ヘンゼルとグレーテル オペラレクチャー」に参ります。★
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Author:感動人
 芸術全般を愛する団塊世代です。
 「引退後」、たっぷり時間をかけて、いろいろな芸術を初心にかえって学び、横断的に、楽しんでいきたいと思います。もうひとつ、心身共に健康に「年をとっていく」ための、生活のマネジメントも「同時進行」でお伝えします。
 のんびりと過ごしたいと考えています。お寄せいただくコメントなども、論争などは避けて、ゆったりしたお話をお寄せください。

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