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レーヌ=マリー・パリス『カミーユ・クローデル』 ~早熟の天才的な女性彫刻家。哀愁と悲しみを帯びた作品。ロダンの協力者(弟子)、愛人として、ロダン作品に構想を反映させ、やがて、捨てられて心が病み、30年を精神病院で暮らしました。

 以前から、ロダン作品を観るときに、カミーユ・クローデル(1864-1943)の事が気になっていました。
 ロダンの優秀な弟子(ロダンは、厳密には弟子をとったことがありません。従って、協力者か、〈弟子以上の存在〉とも言えます。)・愛人で、ロダンにアイディアを与え、やがて捨てられて精神を病んだことは知っていました。

 今回、1989年発行の、1万円近い、厚さ4㎝にもなる重厚な本書で、カミーユ・クローデルのことをきちんと知りました。精神病院での診療記録も公開されていますが、毎年の記述が、「同様」「同じ状態」・・といった、疑問を感じる記録の何と多いことか。

レーヌ=マリー・パリス『カミーユ・クローデル』(みすず書房)

 作者は、カミーユの弟・ポール・ルイ・シャルル・クローデル(1868-1955)の孫娘(1838-。次女の娘)です。
 なお、ポール・ルイ・シャルル・クローデルは、外交官で駐日・駐米大使も歴任し、劇作家(「マリアへのお告げ」)、詩人(五大頌歌」)としても、20世紀前半の最も重要なフランス文学の存在と言われています。

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 表紙の作品は、ほぼロダンと別れる頃の作品、大理石の「小さな女城主」(1896。「少女ジャンヌ」・「リレットの少女」とも。)です。独創的な彫刻家でカミーユを見いだしたプーシェの「優しさ」の影響がうかがわれます。

 まずは、共訳者の、文学者で精神科医でもある、なだいなだ(1929-2013)の言葉が胸に応えます。
「当時の精神病院では、それが当たり前のことであって、100人の医者がいたら、99人までが、彼女を同じように遇しただろう・・・にもかかわらず訳者は、厳しすぎると思われるかもしれないが、敢えて99人を責めずにはいられない・・・もう少しなにかできなかったのか、と」。

 カミーユ・ロザリー・クローデル (1864-1943)。シャンパーニュに生まれました。
 美貌で、しゃがれ声、田舎くさいところもあって、とつとつとした話し方。荒っぽい動作と子どもっぽい機智を持っています。〈クローデル〉とい名前に関係あるか否か分かりませんが、やや足を引きずって歩いた(「びっこ」)と弟は書いて(220頁)います。

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 父は、ヴィルヌーブの名士であった、ルイ=プロスペール・クローデル(登記所の収税吏)、母はルイーズ・セルヴィで、相続した土地を持参して1862年に結婚しました。
 子どもは、夭折した長男・アンリのほか、3人で、カミーユ(1864年生)、ルイーズ(1866年生)、ポール(1868年生)。

 クローデルの家庭は、父は、真面目で厳しく、〈嵐が猖獗を極めた〉ように、言い争いが多く、穏やかではありませんでした。カミーユは、稀に見る美貌で、気性激しく、また、自分の才能を露ほども疑っておらず、小さい頃から彫刻が好きでした。
 父は、厳しくも子ども達を愛して育てました。母は、後に、カミーユがロダンと今で言う〈不倫〉してからは、カミーユを嫌い、妹を愛し、頼りました。この時代、性の問題はタブー視されていました。
 カミーユは、弟・ポールとは親愛で、息を引き取るときに「私のかわいいポール」と言ったとか。

(以下、下記の「続きを読む」をワン・クリックしてお読みください。)

 父の昇進によって、一家は、ヴィルヌーブから、パール=ル=デュック、さらに、パリから100㎞離れたノジャン=シュール=セーヌに移転しました。
 ノジャン=シュール=セーヌで、カミーユは、彫刻家・アルフレッド・プーシェに邂逅し、手ほどきを受けます。さらに、父がランブイエに配置された際、父は、家族をパリに残して、子どもたちに最高の教育を受けさせました。

 彫刻家・アルフレッド・プーシェは、ラミュを師とし、信望があり、細やかな心遣いをし、アトリエ「箱舟」を開放しています。プーシェは、表現力に富み、荒削りですが、内面性豊かな作品で、カミーユに影響を与えています(「小さな女城主」・「老女エレーヌ」・「クロト」)。

 プーシェは、また、革新的なグループ《フィレンツェ人たち》の主宰者であり、後に、美術学校校長も勤めた、ピガールの甥の孫息子、ポール・デュボアと友人でした。
 プーシェは、カミーユをポール・デュボアに紹介し、デュボアは、カミーユの作品を観て、才能を評価し、次のように言います、
ロダン氏にお習いになったのですか ?
 当時、ロダンは、未だ無名で、その作品は、「人体から直接型取りした」とか、疑惑と哄笑の対象であった時でしたので、褒め言葉か否かわかりませんが・・・。

 ポール・デュボアの作風は、滑らかな手法と伝統的なテーマを重視していて、ロダンや、身近な題材をエネルギッシュに成形するカミーユの作品とは異質でした。
 また、《フィレンツェ人たち》は、トスカナ画家派を好み、勢いある正確な作で、端正で均整の取れた作品を好みましたが、カミーユは、プーシェを通して、間接的にデュボア・グループの理念を〈習得〉したようで、細やかで、正確な作品は、ここから来てるようです。

 また、カミーユは、足繁くルーブル美術館に通い、ギリシャ芸術から学び、神話を扱った寓意的で仰々しい装飾を避けるようになりました(「女のトルソ」(1887))。
 この頃のカミーユの作品は、すでに、初心者の試作品などでは無くて、人目を驚かす技量が発揮されていました。

 パリで、カミーユは、コラロッシ学院(後に、アトリエ・ド・ラ・グランド・ショーミエールとなります。)に通い、3人の英国人の美術学校(ポーザール)の聴講生の友人達とアトリエをノトルダム=デ=シャン通りに借りました。
(この中の友人・ジェシー・リプスコムは、やはり、ロダンの〈弟子〉ともなりましたが、カミーユの生涯の友人ともなり、カミーユが精神病院入所後も、1924,1930年に面会に行っています。)

 やがて、1881年、アルフレッド・プーシェがサロン賞を獲得し、イタリアに留学することになります。そこで、ロダンに、自分の代わりに、ノオートルダム=デ=シャンのアトリエに時々行って呉れるよう依頼し、特に、カミーユの事を頼みます。
 こうして、カミーユは、ロダン最初の女弟子(協力者)となるわけです。


 フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン (1840-1917)。
 ずんぐりした、髭ずらの40男で、短足だが、比類ない手を持つトルソ(胴体)です。
 カミーユ・ロザリー・クローデルの出会いは、カミーユ19歳の、1883年頃。ロダンが、42歳で、「地獄の門」を構想・製作していた時期です。
(因みに、その後、別れるのは1893年

 カミーユは、弟子から優秀な協力者、下彫工として、手腕を発揮し、そのイメージをロダンが借用(ロダン「ガラテ」、「接吻」などは、カミーユ「束を背負った女」、「サクンタラ」など)するほどでした。
 ロダン制作中の「地獄の門」にも、カミーユが製作した部分もあり、モデルにもなっています。一心不乱に働いたカミーユの署名は、勿論無く、ロダンの作品です。
 後述しますが、カミーユは、着想を消化し、構成を練るのが得意で、また、ロダンの〈総括性〉の不足を大いに補ったように思われます。
 ロダンは、カミーユを公式の場所にも同伴し、様々な芸術家、国の上層部の人々にも紹介しています。

 カミーユは、1888年頃までは、自宅からロダンのアトリエ(ユニヴェルシテ通り182番地)に通っていましたが、新しいラ・フォリ・ヌーブルのイタリア通り68番地のアトリエが出来ると、近くのイタリア通り113番地に住居を持って通い始めました。ロダンが援助したのでしょう。
 カミーユは、製作協力するほか、モデル(「想い」「別れ}など)にもなっています。

 トゥレーヌ地方の避暑地に借りた城では、二人は頻繁に過ごしました。
(ここで、4人の子どもをつくったとか、男の子2人だとか、堕胎したとか、様々な説が囁かれていますが確証は無く謎です。)

 ここで、カミーユとロダンの作品を比較してみます・・。

 似ているのは・・、手作業の横顔を彫り、動きを筋肉によって表現するダイヤモンドのような細工師であること、
 仕上がりも、贅肉(ぜいにく)をはぎ取った気迫に満ちたもので、隆起や窪みの反射光には、内容の充実した物体が持つ緊密さに満ちています。
 美学的にも、不必要な細部に拘らず、要点に真っ向から挑んでいます。

 異るのは・・、
 ロダンの、総括性の無さ(「地獄の門」)、動作の激しい誇張、動きの段階的な表現(「カレーの市民たち」初作)。
 ロダンは、全体を安定した均衡状態に置くため、動きを表現するのに芝居がかった所作を用います。

 カミーユは、緊張感ある静止状態
 中心以外の所に重心を置き、難しい構成を追求し、入念に全体を仕上げます(「クロト」・「ワルツ」(下の写真)・「心からの信頼」)。目に見えないが、実在する一つの支点を向かして、決めます。

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 ロダンの・・、媒介無しのイマージュで作品を創り、題を後からつけるような作品。
したがって、着想を消化し、構想を練るに不向きな作家。例えば「恋人」作品は、性交のヴァリエーションです。

 カミーユは・・、主題(共通する想い、通い合う心)を撰び、それに合わせて効果を計算する。長期の熟考と研究の成果で、作品が熟し切っている。
 作品の大きさも、主題に一致している(「おしゃべりする女たち」)。
 「恋人」作品も、みだらさが全く無く、慎み深い。
 さらに、
 どの角度からも死角のない、3次元の構成をもつ肖像や胸像

・・と言った具合です。

 二人は、能力が対するほどしたが、気性は異なり、愛は、どのようなものだったのか、破綻の原因も決めてに欠けます。
 類い希な個性の二人が、時の経過と共に、気性が衝突したのか、カミーユが純粋だったか、理性的・野心的であったか、カミーユの母性本能に傷を受けたのか、ロダンの伴侶・ローズ・ブーレの嫉妬、葛藤、攻撃があったか、カミーユとクロード・ドビュッシー(30歳ほど)の1888年又は1889年から1891年の恋愛が影響しているのか、それは、恋愛と言えるほどのものであったか・・、様々ですが、終局近くに、ロダンがカミーユにある種の懸念を感じて〈逃げた〉というのは、確かのようです。

 カミーユ、30歳の頃にロダンとの同棲生活は打ち切られ、1898年年には、15年に及んだ交際はほぼ完全に終わります。
 カミーユは、イタリー通りの住まいから、チェレンヌ通り63番地に、1896年から1年ほど住み、1899年にはブルボン河岸19番地に移り、1913年まで暮らします。

 ・・乱雑な部屋、世捨て人のように人と交わらず、10匹以上の猫と、極貧の生活でした。
 まだ、女性差別のある時代です。

 それでも、作品は製作し、美術界はまだ彼女に注目した記事も載せることもありました。
 1893年から1899年まで、国民美術協会審査員にもなっています。この会は、公的、保守的な、停滞もしていたフランス芸術家サロン(カミーユも1883からこのサロンに加わっていますが、後、国民美術協会に移っています。)に対して、1890年に設立されたもので、会員は少ないが、ロダン、カミーユも主要なメンバーでした。

 因みに、彫刻の制作活動には、年間1500~1800フランかかります。
 土・骨組み・鋳造に600~800フラン、モデル料が400~1000フラン、大理石には莫大な費用がかかり、イタリア製の上質な大理石は、1立法メートル1500~2000フラン、しかも、等身大座像を創るには2立方メートルは必要です。
 父と弟が、母と妹に内密で援助をしていましたが、カミーユは、借金で告訴され、労働調停委員会で問題になり損害賠償を命じたりされ、しかも、返済のために借金すると、愛人に貢いでいるなどと噂を立てられたりしました。

 やがて、1905年頃から、特に、精神に変調を来たして、彼女は、ロダンが彼女の作品アイディアを盗んで、自分だけが芸術界で注目され、宴会や公的生活に忙殺されている、そのことから、ロダンは彼女を抹殺しようとしている、などと思い、また、公然と口にするようになります。この頃から、作品をハンマーで壊しはじめます。
 彼女を庇っていた、弟・ポールが、1894~1909年にヨーロッパを離れ、3度位しか会えなかったのも不幸でした。

 1909年頃には、ロダンに関するパラノイア(妄想)症状がひどくなって来ました。母・ルイーズ・クローデル・・〈人でなし〉ロダンとの過ちを決して許しませんでした。因みに、厳格で柔軟性の無い母は、他の子どもにも愛情深い母では無かったようです。1929年没。・・と妹は、カミーユに反感を持って、彼女を庇わなくなっています。

 1913年3月2日月曜日、父・ルイ=プロスペール・クローデル死去。カミーユには、知らせられませんでした。

 1913年3月10日曜日、カミーユは、二人の屈強な看護師によって、ブルボン河岸のアトリエから身柄を拘束され、ヴィル=エヴェラール保養院に強制収容されました。48歳。病が兆してから15年ほどたっていました。
 手続きは、弟・ポールが(同年10月からハンブルグ総領事)、ブルボン河岸19番地のミショー医師と、1838年の法律(カトリック系の法律)に基づいて進めました。

 やがて、アヴィニョン近くのモンファヴェ市行政地域内(ヴォクリューズ県)にある、モンドヴェルク精神保養院に移送され、残りの生涯30年をそこで過ごすことになります。
 1943年10月19日没。遺体は、行政法規に則り、家族から遠く離れた地、モンファヴェの墓地の、モンドヴェルク病院専用地に無名者として埋葬されました。

 因みに、生前、ロダンは、僅か500フランを自らの基金から名を秘して贈与しています。
(こう言う話を聞くと、なぜか、ロダンが〈小さな人間〉に思えてしまうのですが・・。) 
 カミーユの哀愁と悲しみに満ちた作品は、作者自身の一種自画像としての作品かもしれません。すっかり、好きになりました。

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 カミーユが12から5歳時代を過ごした、ノジャン=シュール=セーヌには、2017年3月26日にカミーユ・クローデル美術館が開館しました。

 〈重い〉が、素晴らしく充実した読書をしました。★
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Author:感動人
 芸術全般を愛する団塊世代です。
 「引退後」、たっぷり時間をかけて、いろいろな芸術を初心にかえって学び、横断的に、楽しんでいきたいと思います。もうひとつ、心身共に健康に「年をとっていく」ための、生活のマネジメントも「同時進行」でお伝えします。
 のんびりと過ごしたいと考えています。お寄せいただくコメントなども、論争などは避けて、ゆったりしたお話をお寄せください。

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