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砂川幸夫『浮世絵師又兵衛はなぜ消されたか』(草思社) ~ いささか古傷を暴くようですが、〈憂世の道化師〉岩佐又兵衛を巡っての、陰湿な、長い論争過程の詳述を読みました。

 それにしても、常磐の受難と仇討ちが描かれた「山中常磐物語絵巻」は凄い。
 先頃始まった・・勿論、「山中常磐物語絵巻」の一部も出展されている・・、東京都美術館での『奇想の系譜展』の岩佐又兵衛を知るために、

砂川幸夫『浮世絵師又兵衛はなぜ消されたか』(草思社)

を読みました。

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 合わせて、この本に、又兵衛「復活」の転換点となった書物としてあげられている、昭和55年刊行の、

『日本美術絵画全集』(集英社)

を私は、持っていました ! 早速、書斎から持参して座右に置きました。また、

松本清張「岩佐又兵衛」
(「小説日本芸譚」所収、155-176頁。もとは、昭和32年「芸術新潮」連載。)も読みました。
生涯が、実に、明快端的に書かれています。

 はじめに、岩佐又兵衛について・・、
 岩佐又兵衛(1578-1650)は、諱は勝似(かつもち)。摂津・有岡城主・荒木村重の末子(おそらく妾腹の子)です。

(以下、下記の「続きを読む」をワン・クリックしてお読みください。)


 村重は、織田信長の家臣でしたが、毛利輝元、石山本願寺側と通じ、信長に反逆し、一族はほとんど惨殺されますが
(因みに、村重は、逃走し、毛利藩に匿われ、信長死後は秀吉に許され、剃髪し、堺で利休門下として、道薫と名乗り54歳まで生きました。)、
数え歳2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺・教主顕如に保護されました。

 その後、織田信雄(のぶかつ)の近習小姓役に取り立てられるなどし、母方の岩佐姓を名乗り40歳頃まで京で過ごしました。
 幼少から画才を発揮して、狩野内膳(重郷(しげさと。1570-1616 )、内膳の父は、元村重の家臣でした。)や後、土佐派の土佐光則から絵を習い、在野の絵師として、両派の奥義を極めます。

 なお、念のため。狩野内膳は、「豊国祭礼図屏風」の豊国神社に伝わる絵を描きましたが、もう一つ、又兵衛が描いた「豊国祭礼図屏風」(黎明会本)があり、古浄瑠璃絵巻群の「上瑠璃」の系統にあります。

 1616(元和2)年頃、越前北之庄(後述する、忠昌の時代から福居(福井))の、真宗本願寺派・興宗寺13代目住職の心願(しんがん)に誘われ、同寺に住んで絵を描きます。ちょうど、大坂冬の陣の翌年頃です。
 《又兵衛工房》も創り、多くの風俗画、絵巻物も描いたようです。

 藩主・越前守松平忠直(家康の孫。1623年、豊後国へ流罪で失脚)、弟・忠昌(ただまさ)の治世でしたが、御用絵師として召し抱えは無くも、絵の頭角を現しました。
 その後、1637(寛永14)年、三代将軍徳川家光から、武州・川越東照宮喜多院の絵(三六歌仙額)を依頼されて、再婚した妻と子を残して江戸に上ります(その時の旅行記が「廻国道之記」)。

 おそらく、又兵衛の異腹の兄、村重の正妻の子・荒木村常の養母が、大奥・荒木の局としており、春日の局に頼み、東照宮再建奉行・堀田正盛を動かしたようです。春日の局は、正盛の生母です。また、忠昌が天海僧正に又兵衛を自慢したことが、江戸に伝わったのかも知れません。

 又兵衛自身は、父や織田信雄との生活で辛酸をなめ尽くし、周囲の武士も陰影が深くなり、身分制度も固定化して行き、その〈憂世〉の鬱屈を〈浮世〉の〈絵空事〉で晴らそうとしたのかもしれません(辻説)。

 さて、本書の話に入ります・・、

 今では、当然のように鑑賞している「岩佐又兵衛」が、なぜ、浮世絵作者として、また、多くの絵巻物ともども、昭和50年代頃までは、《無視》されてきたか、つまり、《消されてきた》かのスリリングな追求です。
 スリリング、とは言っても、人間性がもろに出ている、あまり気持ちの良い話ではありません。

 《消した》のは、藤懸静也(ふじかけ しずや)。昭和5(1930)年から、没する昭和38(77歳)までの又兵衛《無視》に起因します。要するに、消されたわけです。

 氏は、東京帝国大学(国史科)卒、國學院大學教授、東京帝室博物館学芸員、文部省で国宝等の指定行政に携わり、昭和9(1934)年母校帝大教授、以降、「国華」主幹、「日本浮世絵協会」のトップ、文部省文化財専門審議会委員・会長、東京国立博物館評議委員と・・官立エリート、権威者です。

 浮世絵では、肉筆よりも版画が優れている、又兵衛画はそれほど優れていない、絵巻物など又兵衛作では無い、浮世絵元祖は菱川師宣である、といった自説を主張しつづけました。
 それは、それほど過去の話ではありませんが、本書の著者は、元々、藤懸説は根拠のない独善説であると、容赦なく徹底的な感じで批判します。

 一方、復権
昭和43年頃から藤懸静也説を批判したのが、

 辻惟雄(つじ のぶお)です。
今回の展覧会は、氏の書名に寄っています。

 氏は、東大史学科大学院時代に山根氏と知り合い、国立文化財研究所を経て、東北大学助教授・教授、東大教授、美術史学会代表となります。
 その辻が、昭和43年から「美術手帳」に連載し、昭和45年に単行本となった、
「奇想の系譜ー江戸のアバンギャルド」
を経て、
 辻が執筆した、昭和55年『日本美術絵画全集』(集英社)
で又兵衛を認知するに至って《復活》します。

 この全集の全体の監修者・田中一松は、辻が、国立文化財研究所時代に所長を勤めていました。因みに、その後、「国華」主幹にもなります。
 ただ、この辻が、「舟木本・洛中洛外図屏風」の扱いなどで、著者にしては、まだ腑に落ちない主張をしている(つまり、又兵衛説を否定した「又兵衛前」説)のが、後輩(狩野博幸・小林忠ら)らが、辻に遠慮してはっきり肯定説を言えないのではと、本書では書き添えられています。

 辻は、山根有三、
から刺激を受けたのが発端です。氏は、京都国立博物館から神戸大学助教授、東大教授、やがては出光美術館理事となりました。この山根が東大助教授時代に辻は、邂逅しています。
 因みに、山根は、藤懸静也が定年退官する前年の昭和15(1940)年に東大に入学し、藤懸が机を叩いて「又兵衛は、浮世絵の元祖にあらず」と熱弁をふるっていたのを聴いています。

 本書で、気持ちの良いスリリングさを味わえるのは・・、
 第一書房の長谷川巳之吉が、昭和3(1928)年、35歳の時、外国に流出する寸前の「山中常磐物語絵巻」を、財産を投げ打つように買い取った話や、

 熱海の、岡田茂吉の蒐集品を展示する、MOA美術館(モキチ・オカダ・アソシエーション。昭和57年開館。なお、岡田は、昭和30年に73歳で死去)の作品蒐集の話、
 岡田は、小売商・光琳堂、クシやかんざしの卸商・岡田商店から、大本教信者を経て、昭和25年には、自ら、世界救世教の教祖となります。「高い芸術は、人間の獣性を抜き、品性を高める」という主張がありました。また、いち早く、自然農法を主張し、信者に普及させました。
 数年で大量の美術品を蒐集し、昭和27年には、箱根美術館を解説しました。
 その岡田でさえ、〈色絵藤花文茶壺〉を手に入れるために、3,200坪の土地を東急の五島慶太に売って金を工面した事があります。その土地は、現在、「五島美術館」が建てられています。

 また、大正3(1914)年、松方正義の三男・松方幸次郎(川崎造船所社長)が、資材売買予定の差益3千万円で、海外に流失していた日本の美術品を買い戻した話、なお、その美術品整理をしたのが、矢田三千男と、藤懸静也だった、と言うのも面白い。

 さらには、先ほどの、第一書房が雑誌「セルパン」や多くのベストセラーを出したこと、そして、昭和19(1944)年、廃業までの話や、また、神田の東京堂、共同印刷の話も面白い。

 さて、どの世界でもそうでしょうが、芸術の〈戦い〉過程は、印象派誕生のときも、クリムトのウーンでもありましたが、ここにも一つあったことを知ることができました。
 絵を鑑賞することは、争いの歴史を知ることでもあるようで、漫然と絵を鑑賞しなくなりました。

 ところで、先日読んだ、
村上隆「芸術闘争論」(幻冬舎)
に、辻惟雄「奇想の系譜ー江戸のアバンギャルド」や、同書に登場する狩野山雪「老梅図襖」、白隠禅師などの話が登場するのは、これまた、奇遇ではあります。

 それに、《貴婦人と一角獣》を調べたくて、2013年の「芸術新潮」を繰っていたら、連載で、辻と山根教授の話と写真が載っていました。ついでながら、この年の同誌には、白隠の特集もありますし、2005年4月号は、蕭白(しょうはく)も特集しています。
 少し、バックナンバーを当たると楽しめるかもしれません。★
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Author:感動人
 芸術全般を愛する団塊世代です。
 「引退後」、たっぷり時間をかけて、いろいろな芸術を初心にかえって学び、横断的に、楽しんでいきたいと思います。もうひとつ、心身共に健康に「年をとっていく」ための、生活のマネジメントも「同時進行」でお伝えします。
 のんびりと過ごしたいと考えています。お寄せいただくコメントなども、論争などは避けて、ゆったりしたお話をお寄せください。

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