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全段、きちんと読む、文楽『菅原伝授手習鑑』~文楽の基礎から、じっくり予習します。

・・・「ここはどこの細道じゃ、
天神様の細道じゃ、どうぞ通してくだしゃんせ」・・・

 我が家の近くに、小さな「天神」神社があります。
 どうして、ここに菅原道真が祭られているか、昔、「寺子屋」でもあったのでしょうか。

 菅原道真を描いた、

菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』

が、4月5日から27日まで、大阪の国立文楽劇場で、通しで(タテで)公演されます。
(今回は、大阪での、住大夫さんの「引退興行」でもあります。)

 そこで、じっくりと、「予習」してみます。約1万4千余字です。
 

 「菅原伝授手習鏡」は、人形遣いの勘十郎さん曰く「常識問題みたいなもの」(「上方文化講座・菅原伝授手習鏡」(和泉書房)、66頁)だそうで、文楽協会の方は、浄瑠璃や各人形の役々や小道具の扱いなどは全部頭に入っていて、疑問が出ても「いまさら人に聞けない」出し物だそうです。

 
 そういう有名作品を、素人の予習としてあえて書くのは、かつて、自分が最初に予習していて、どうもよく分からなかったことで、書物などでは自明として書かれていないことや、登場人物の名の読み方、年齢、位、姻戚関係とか、天皇との関係とか、物語の最後に至ってやっと分かることを、最初に知っておいたほうが理解しやすかったと思ったこと、などを踏まえて書きますので、また、時には、それ以後、知識がついたことで知った見どころ、注意点を書きますので、良書がたくさんあっても、これはこれで多少は役に立つのではないか、と考えて書いています。
 どうか、時間をかけてご参照いただければ幸いです。
 

 まずは、作品解説です。

 「菅原伝授手習鑑鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」、

は、延享3年(1746年)8月に大阪(坂)竹本座で初演され、好評で、翌年3月まで続演されました。

 江戸では、初演の翌年2月から興業されましたが、この時、町の手習い(寺子屋)師匠に「切落札」(招待入場券)を配ってPR、動員したようです。歌舞伎では、この年、10月京で初演されました。

 この頃は、人形浄瑠璃が歌舞伎を圧倒していた、まさに人形浄瑠璃の「黄金期」で、その中の、完成された最高傑作と言われています。
 同時に、人形遣い吉田文三郎の考案した、菅原道真(菅丞相)、3つ子らの衣装も評判になりました。

 この頃の、「時代物」、に見られる特色は、

1 国をゆるがすような闘争や乱れた秩序を回復する物語であること。
 
2 その過程で大きな悲劇、死、逆縁の死などの「別れ」が生ずること。
 生ずる悲劇は、能などに多くあるように前世の因縁、私憤といった個人に由来するのでなく、国や社会の問題、因果関係に由来する目的的行為であること。

3 当時の世相、観客の好み、関心を上手く反映させている、当時の「現代劇」であること。

などです。


 さて、この作品は、数人の作者による「合作」が主流となっていった頃の作品ですが、この合作者とその作品が驚愕です。
 
 まず、〈チーフ〉は、座本の竹田出雲。70歳代です。出雲は、四段目切・松王と小太郎の首の別れを書いたとの説があります。

 並木千柳(1695ー1751)。豊竹座にいて並木宗輔、と言いましたが、1742年から1744年まで、歌舞伎作者をしていて、竹本座に復帰しました。もと、備後国の臨済宗の僧もしていました。50歳代の油の乗ったころです。三段目切・白大夫と桜丸の死の別れの作者との説があります。

 三好松洛。やはり、もと真言宗の僧でした。やはり50歳代。二段目・菅丞相と狩屋姫の別れの作者との説があります。

 この三人は、立て続けに、「義経千本桜」(1747年)、「仮名手本忠臣蔵」(1748年)と、三大傑作をヒットさせています。

 合作者には、もう一人、
 竹田出雲の子、竹田小出雲。二代目座本となる人物で、やはり50歳代です。

 彼らが分担執筆して、技巧を尽くした、大きく3つの「別れ」、の悲劇を書きました。


 菅原道真の和歌・・、
「梅は飛び。桜は枯る世の中に。何とて松のつれなかるらん。」
(「梅王丸は配所に向かい、桜丸は命を落とし、松王丸は菅丞相側と対立する」)
・・が発想の原点でしょう。


 では、さっそく、舞台を見て(聞いて)みましょう。

 ここで、少し、文楽初見の方のための知識を・・、
 第一部開演の15分位前に、「三番はじまり」(「三番叟」)があります。見落とさないように席に着きます。

 さあ、開演です。文楽の「引き幕」は、歌舞伎と反対に、上手から下手に開きます。

 床触(ユカブレ)、「このところ、・・・・の段、相勤めまする太夫・・・大夫、三味線・・・、東ォー西、東西」。
 「太夫」は、一般名詞、「大夫」は、固有名詞です。
 
 人形登場に拍手したいところですが、太夫の語りの邪魔になりますので、むやみに拍手するのは慎みます。


・・・・はじまり。 

(大序・大内の段)
 天満宮大自在天神の道真公(みちざねこう。845ー903)が愛された梅の花に・・、

「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ梅の花 主人(あるじ)なしとて春を忘れな」、

・・と末世まで伝えられる歌の心は、この神が菅原道真(菅丞相)として人臣であった頃のことです。


(※コメント:菅原道真(すがわらみちざね、「捨遺抄」では、ミチマサ、自らはドウシンとも読みました。
 唐名風には、菅丞相〈かんじょうそう。戯曲では、かんしょうじょう。〉なお、唐では、大臣を丞相と言います。)は、845年、従三位参議・菅原是善(これよし。このとき34歳)の三男として生まれました。代々の学問一家です。宇多法皇に重用されました。
 
 
 59代・宇多天皇は、21歳の時に、藤原基経の推挙で天皇の道が開きました。基経の息子が時平(史実では、菅丞相よりも、26歳下です。)です。
 宇多は、道真を重用します。やがて東寺で受戒し、仁和寺に入り、「法皇」となりました。

 
 宇多30歳の時、897年に、18歳の醍醐天皇(60代。延喜帝)に位を譲りました。
 醍醐天皇の弟(宇多法皇の第三子)が17歳の斉世親王です。以上は、重要なポイントです。)
 

 大内山、京の寝殿。
 平安初期、日本の天子、延喜帝(醍醐天皇。18歳)の聖徳を伝え聞いて、その絵姿を描きたいと、勃海(ぼっかい)国皇帝・徽宗(きそう)の命を受けて、その使者、僧・天蘭敬(てんらんけい)が来日しました。
 
 おり悪しく帝は病気。そのことを言って帰すことはあらぬ疑いを生じさせ、信じてもらえないこともあり、身代わりになろうと言い出した左大臣・藤原時平(しへい。ときひら、とも)を、右大臣・菅原道真(菅丞相・かんしょうじょう)が、時平は、帝の器にあらずと諫め、無品(位がありませんが)ではありますが、皇弟・斉世(ときよ。17歳)親王に帝の服を着せて描かせます。


(※後に分かりますが、時平は、謀反を企んでおり〈ですから、歌舞伎の「車引」の時平の衣装は、天皇のものと同じです。これは謀反を企んでいることを表しているのです。〉、ゆくゆくは、天皇一族を島流にし、自ら地位につこうとしています。なお、時平は、実力者・藤原基経(もとつね)の遺児で、菅原道真(菅丞相)よりも位が上の左大臣です。)

 
 僧・天蘭敬は、日本の天子の姿(※斎世です。)に感嘆し、絵を描き帰国します。

 僧が帰ると時平は、無品の斉世親王から天子の服をはぎ取っての雑言。菅原道真(菅丞相)は、それを諫めます。

 
 ところで、菅原道真(菅丞相)は、この頃、天皇から、「菅家(かんけ)筆法」を、弟子に伝授せよとの勅命を受けます。

 菅原道真(菅丞相)には、長子は女子の養女、男子は、まだ7歳の菅秀才(ここでも、唐様風に)しかいないので、才の優れた弟子に奥義を伝授することが末世委のため、ということです。


 そこで、古くから菅丞相の弟子で、宮中では菅丞相の同僚である左中弁・希世(名の由来は、自ら、まれよ=世にまれなる、という名付けだと言う場面があります。)は、我こそその適任者と言いますが、菅原道真(菅丞相)は、にこりと笑って否定します。


 菅原道真(菅丞相)は、誰に伝授する(「菅原伝授」です。)か考えるために、7日間、屋敷に籠(こ)もり神道加治し、伝授する弟子を決めることにしました。


(※実は、後述のように、菅丞相が、この家にこもって世情から離れている間に、とんでもないことが起こります。 その事件から、菅丞相は、思ってもみない罪を着せられることになるのです。)


口~(加茂堤)
 菅原道真(菅丞相)に仕える桜丸と女房・八重は、神事(神参り)がある機会に、斉世親王(17歳)と菅丞相の養女・苅屋姫を、それぞれ連れ出して、恋を取り持ちます。
(※斎世親王は、宇田法皇の第三皇子であり、醍醐天皇の弟です。)

 この密会を、反菅原道真派の公家・三善清貴らに見つけられ、あわてた二人は狩衣のまま失踪します。

 菅丞相は、ずっと家にこもっておりこのような事件は知らず、また、周囲の人間も、筆法伝授を控えた大事な折りということから、あえて、この事件を菅丞相に耳に入れませんでした。このことが、返って弁解を失する一因にもなりました。
 もっとも、菅丞相は、「天皇の無謬性」を信念としていることから、あえて、言い訳などしない生き方のようですが。


 桜丸は、逃げた二人は、苅屋姫の実家、河内国、土師(はじ)の里、母・覚寿(かくじゅ)様のもとに行ったのではないか、と二人の後を追います。
 

 ところで、桜丸は、菅原道真の領地である佐多村の四郎九郎(しろくろう)に生まれた三つ子のひとり。あとの二人は、梅王丸と松王丸。

 当時、三つ子は「天下泰平の相」と重宝され、租税も一代免除され、子どもは御所に奉公でき、桜丸は斉世親王の舎人(とねり。近習というよりも、牛飼。なお、太宰府に牛に乗る菅原道真の絵があります。)に、梅王丸は菅原道真に、松王丸は藤原時平に仕えています。
 ちなみに、「丸」とは、よく船名に付いていますが、神の霊魂を宿して守ってもらうことから来ました。「王」も、仏教の守護神から来ています。

 後にありますが、四郎九郎は、来月は、古希(こき)で、菅原道真の命で、祝いをすることになり、息子たちを家に呼んでいます。


切~(筆法伝授)
 ここでの「切」の語りです。

 「菅原伝授手習鑑」の名題の由来ですが、主人公・菅原道真(菅丞相。かんしょうじょう)の菅家律法、筆法の奥義の伝授(「菅原伝授」です。)と、「寺子屋の段」の習字の手本、「手習鑑」です。


 菅原道真(菅丞相)は、筆法を、4年前、腰元・戸浪(となみ)と恋したため菅原道真(菅丞相)家を、不義勘当となっている武部源蔵を探しだして、伝授することにしました。
 武部源蔵は、いまは落ちぶれてはいますが、洛中・鳴滝(なるたき)村で寺子屋を営んでいます。
 ただし、筆法は伝授されても、勘当は解かれません。

(※武部源蔵は、江戸時代に実際にいた、門弟3千人と言われた、書家・建部伝内(たけべでんない)の名をもじったといわれます。)


 一方、自分が伝授されるべきだと願っていた希世は、恨みます。
 
 ところで、先述のとおり、菅原道真(菅丞相)が、伝授すべき者を決めるために7日間こもっている間に、加茂堤の事件が起こっていました。菅原道真にとっては、あずかり知らないことです。


(築地(ついじ)の段)
 菅丞相に急遽参内せよとの命がありました。
 斉世親王と苅屋姫の逢い引きは、姫を后(きさき)にし(醍醐天皇を廃し、娘婿の斉世親王を天皇にし)たい菅原道真(菅丞相)の陰謀であるとの時平の讒言で、菅丞相は、三善清貴らに冠をはぎ取られ、捕まり、流罪とることになります。
 この際、希世は、さっさと三善清貴に付き、時平側となります。

(なお、史実では、醍醐天皇の流罪裁定を聞いて、宇多法皇は、御所に駆けつけ、その非を正そうとしたのですが、菅丞相の陰謀を宇多法皇が了承したことと誤解し、クーデターを恐れた醍醐天皇とその警護に阻まれ、終日坐しましたが、会えず、帰還し、このようになってしまいました。)


 家中混乱の最中、武部源蔵は、梅王と協力し、菅丞相の子・菅秀才(しゅうさい)を預かって逃げます。大事な後継ぎです。
 その時、清貴側の希世を打ちすえ、荒島主税を切り捨てます。菅原道真(菅丞相)から勘当されている身ゆえ、狼藉しても菅原道真(菅丞相)には及ばないという訳です。


二段目~(道行詞甘書)
 桜丸は、飴売りに身をやつし、親王と姫を追い、追いきます。
 人づてに菅丞相の筑紫(つくし)・太宰府(だざいふ)流罪を知った一同は、菅丞相の牢船が停泊し、日より待ちをしているという津の国・安井の浜(※大阪、天王寺区の安井(安居)天神)に向かいます。


(汐待ちの段)
 警護する、宇田法皇の旧臣、判官代・輝国の思いやりによって、日より待ちの間、菅原道真(菅丞相)は、河内の国、土師(はじ)の叔母・覚寿に暇乞いをすることになる。このことは、法皇の思いやりでもありました。


 桜丸と斎世(ときよ)親王、苅屋姫が追いつき来て、菅原道真(菅丞相)流罪の理由が二人の密通と知り、菅原道真(菅丞相)の咎を晴らすために、二人は、ここでは取りあえず別れ、親王は帰り、まずは法皇に説明し、詫びることとしました。

 そこに、菅原道真(菅丞相)の叔母・覚寿の娘、立田(たつた)姫(※刈屋姫の姉)が来て、覚寿の心を伝え、菅原道真(菅丞相)の河内行きを強く願います。

 立田は、妹・刈屋の不始末を責めつつも、再会を喜びます。
 桜丸が、親王に付き添って御所に帰ります。刈屋姫を立田が引き留め、親王と別れます。菅原道真(菅丞相)は、立田の乗り物で河内へ向かいます。


(道明寺)
~三好松洛の切(キリ)です。

 判官代・輝国の目こぼしによって、河内の覚寿の屋敷で過ごして、早3日。そろそろ汐の加減もよく、出発が近づきました。

 立田は、刈屋姫を養父・菅原道真(菅丞相)に会わせようと機会を伺いますが、覚寿の筋を通すこともあって思うように行きません。かえって、しかられ、杖で折檻されることになります。しかし、それを止めたのは、菅原道真(菅丞相)の「木像」でした。この木像は、菅原道真(菅丞相)が、立ち寄りの証として懸命の彫って魂が入ったと合点した3本目の木造だったのです。

(※覚寿は、老婆の大役「三婆」の一つの難役です。)

 立田の夫・禰直(すくね)太郎とその父・兵衛は、時平に取り入って出世するため、菅原道真(菅丞相)の出立に合わせて、偽の鶏を出立前に鳴かせ、それに合わせて偽の迎えを差し向けたうえ、菅原道真(菅丞相)を誘拐、殺す謀事をしますが、立田にばれて、立田を殺して池に沈めてしまいます。

 これら一連の謀議を見破った覚寿は、太郎を刺します。

 しばらくして、輝国の、本物の迎えが来たときに、すでに、騙されて連れ去られたはずの菅原道真(菅丞相)の駕籠を持って謀議一団が、騙されたことを怒って戻りますが、駕籠の中からは菅原道真(菅丞相)の声が聞こえます。驚いて駕籠を開けると、木像。やはり騙されたと怒ると本物の菅原道真(菅丞相)がいるではありませんか。

 謀議は失敗に終わり、輝国の、本物の迎えと共に、菅原道真(菅丞相)は、出立します。そっと、小袖をかけた伏籠から見守る刈屋姫。二人の、この世の別離となります。
 

三段目~(吉田社頭車曳)
(※歌舞伎では、江戸では「車引」、上方では「曳引」です。江戸では、この場が、荒事様式美の場面として人気があります。)

 浪々の身の梅王と桜丸が、吉田社頭で時平の車を襲いますが、時平の舎人になっている松王丸に阻まれます。
 
 その時、現れた時平に威圧され、襲った二人は体がすくみ、兄弟それぞれ遺恨を残して別れます。
(※時平の「公家悪」にあふれた敵役ぶりです。歌舞伎の見せ場として人気があります。)


(佐多村)~(茶筅酒の場)
(※動的な華やかな舞台から、次の舞台の変化の妙の味わいです。
 「茶筅酒」とは、樽や徳利では目立つので、「餅の上へ茶筅の先で、酒塩(料理の煮物に味を付けるために入れる少量の酒です)を打ったものです。)
 
 河内の佐多村(※大阪府守口市佐多)・菅丞相の下屋敷、桜の季節、桜、梅、松の木が並んでいます。夕方4~5時頃でしょうか。

 四郎九郎(しろくろう)には、3つ子がいて、そのうえ、70歳とは素晴らしいこと、と誕生日(古希の祝い)に菅丞相から「白大夫(しらたゆう)」の名を賜って改名し、この日は、祝いの日です。
(※「白大夫」とは、本来は、伊勢神宮の神職で、参詣者の案内やお札を配ったりします。)
 3人の子とその嫁達が集まることになっています。

 まず、それぞれの嫁の千代、春、八重が先に着いて、冗談を言って、睦まじく料理などこしらえています。
(※包丁さばきなどユーモラスな人形遣いです。この嫁たちの名前が、松王の嫁が(松につきものの鶴は千年から)千代、梅王の嫁が春、桜丸の嫁が八重、という凝り方です。)

 なかなか夫達が来ないので、道真が愛した松梅桜の木の前に膳をすえて祝い、白大夫は一寝入りした後、八重を連れて氏神に詣でます。
(※実は、桜丸は、もう早朝に来て(隠れています)、切腹の決意を既に父に伝えてあります。父(白大夫)は、悩み、承諾の有無も氏神の御籤などにかけてみようとの本意があります。八重を連れての氏神に詣では、深い訳があり、決して、まだ、八重だけがその氏神に行ったことがないから連れ出すのではありません。)

(喧嘩場)
 やっと到着した梅王丸と松王丸が日頃の遺恨から大喧嘩します。あげく、桜の枝を折ってしまいます。でも、父はなぜか怒りません。
(※怒らないわけは、次の場にあります。クライマックスで、「アノ樹とともに枯れし命の桜丸」という台詞が出てきます。)

(桜丸切腹)
~並木千柳の切です。

 戻ってきた白大夫は、「太宰府に行って菅丞相の元で御用を勤めたい」との梅王の願いを、老人の自分が行けば十分と退け(「菅丞相の元での御用勤めは自分がする。むしろ、御台や子息・菅秀才を助けるのがさきであろうが・・」)、一方、「勘当してもらいたい」という松王の願いは聞き入れ(「主へ義は立つにもせよ、親の心の背く、天道に背くものだ」)、松王夫婦を追い出します(「人外~人の道に外れた者~帰れ」)。

 遅れて(※隠れていた)桜丸が登場します。
(※黒紋付き、前髪立で、緊張感に張りつめた顔です。この世の未練を断ち切る悲しさと強さにあふれた人形遣いをじっくり観ましょう。武士でない男の切腹場面です。)
 
 桜丸は、斉世親王と苅屋姫の逢い引きの仲を持ったことから主人に迷惑をかけたことから切腹します。
 女房・八重も後を追おうとしますが、どうも父の様子がおかしい(「桜の折れたを詮議もされぬ」「桜丸が来ぬ不思議」・・)、と帰らずに隠れていた梅王夫婦に止められます。
 
 白大夫は、後を梅王夫婦に任せ、筑紫の菅丞相のもとに向かいます。

 「生きての忠義、死しての義臣、一樹はかれし、無情の桜」
 「残る二樹は松王梅王、三つ子の親が住所、末世にそれと白大夫。・・・」

四段目~(筑紫配所)

 菅丞相は、太宰府で、白大夫をともに、無実の罪がはれるのを待っています。
 しかし、ここにまで暗殺者の手がのび、たまたま、菅丞相の様子を見に来た梅王が捕らえた、鷲塚(わしずか)平馬から時平の謀反の企みを知った菅丞相は、烈火のごとく怒り、帝釈天に祈願して、天皇を守るため、雷神となって、はるか天に上って行きます。
(※あくまで、天皇を守るために雷神となったので、私憤を晴らすためではありません。)

(北嵯峨隠れ家)
 春と八重とに守られて暮らす、菅丞相の御台所(※史実では、宣来子で、5歳年下です。菅丞相、11歳の時の教育の師・島田忠臣の娘で、賢夫人です。)は、気分がすぐれません。きょうも夢を見て眠れない夜を過ごし、法螺貝の音に目をさましました。

 隠れて暮らしていた菅丞相の御台所も居所がバレて、時平の家来・星坂源五に襲われ、御台所を守ろうとした八重は殺されました。そこに法螺貝を吹いていた山伏が現れて、御台所を抱えて去っていきました。 


(寺子屋)
~竹田出雲の切です。

 芹生(京の西北郊外、大原の西あたり)の片山家(かたやまが~片田舎のみすぼらしい家)の寺子屋で、8人ほどの子供が、習字をしています。

 今日は、寺子屋の師匠である武部源蔵が、庄屋の家での振舞いに出かけていて、留守です。
 子供達の中には、師匠のいないときは遊ばなければソンと言って騒いでいる者もいます。
 女房・戸波が様子を伺いに顔を出します。
 いたずらな、よだれくり(よだれをながしている子。でも年齢は15歳位。)などは、菅秀才(8歳)にさかんにチョッカイを出すなどからかって、勉強に身が入っていません。
 でも、菅秀才は、「一日に1字学べば、(一年に)360字・・」と真面目に手習っています。
(※「手習鑑」とは、習字の手本のことです。「鑑」とは、「年鑑」のように、書物のことです。)

 菅秀才は、武部源蔵の子ということになっていますが、実は、源蔵がかくまっている菅原道真(菅丞相)の子です。

 そこに、村のはずれに、軽う(かるう。貧乏くらし、と謙遜しています。)暮らしている千代が、下男・三助に机と文庫重箱などを背負わせて、訪ねて来ます。
 千代の子・小太郎(9歳)をこの寺子屋で学ばせたいと、「寺入り」を頼みます。
 戸波は、見れば、けだかく、利発そうな子・小太郎の寺入りを喜んで承諾します。
 千代は、寺入りのお礼の祝儀と、子供達には土産として餅などの入った重箱を差しだします。

(※我が一人っ子を、「殺させに来る」、千代のつらい、覚悟の気持ちの中を理解します。また、人形にも注目しましょう。)

 よだれくりは、重箱の餅に手を出すなど、いたずらばかりするので、戸波に叱られ、罰として、縛られて、机の上で線香と水の入った器を持たされて正座させられます。
 千代がさかんにとり取りなし、よだれくりも、さすがに神妙になります。

(※いわゆる「体罰」ですが、線香を持たせるのは、時間の経過がわかるようにするため、水を持たせるのは、体を動かないように、じっとさせるためです。 この時代、寺子屋は、子供たちにとって、楽しい居場所であって、決して、厳しい場所ではなかったと言われています。)

 千代が小太郎を寺子屋に置いて帰ろうとすると、小太郎は、千代の袂を掴み、一緒に行きたいと言いいます。
 千代は、「大きな形(なり)をして・・」とたしなめます。

(※小太郎は、すでに、死する「冥途への寺入り」を理解していたのでしょう。これが、親子、最期の会話ともなってしまいました。)

 しばらくして、師匠の源蔵が帰宅します。機嫌がすこぶる悪い。

 寺子屋の子供達を見て、
「氏より育ちというに、繁華の地と違い何れを見ても山賀そだち、世話甲斐もなき役立たずじゃなあ。」
などと憎まれ口を言います。

 女房・戸波は、振る舞いの酒のせいとも思いつつ、周りの手前もあるので、さかんにとりなします。
 と、源蔵は、新しく来た小太郎に気づき、その凛々しさに、一転、機嫌が和いで穏やかになります。

 戸波が、源蔵に、さっきの尋常でない顔付き、それが今度は、一転穏やかになった、その変化を見て、何か理由があるのか尋ねます。

 源蔵が言うには、実は、振舞いのもてなしとの呼び出しは偽りで、庄屋の家に、時平の家来の春藤玄蕃と松王丸が、数百人の追ってを連れて来ていて、菅原道真(菅丞相)の子・菅秀才を、源蔵が、自分の子と偽って匿っているという訴えがあった、その子の首を差し出すか否か、と問い詰められた、というのです。
 差し出す、切った首の見分役は、顔をよく知った松王丸です。

 源蔵は、差し出す、と返答したものの、寺子屋には、身替わりにできるような凛々しい子供もおらず、どうしたものか、と悩んで帰ってきたというのです。

 話を聞いた女房・戸波も、松王丸は、菅秀才の顔立ちをよく知っているので、これは、ごまかせないと言います。

 それで、源蔵は、新しく寺入りした、凛々しい小太郎を見て、身代わりにできると思ったわけです。

 「(寺子屋の)弟子といえば、親子同然」。この際、一かばちか、小太郎の首を差し出し、もし、ばれたら、松王らを切ってすて、ダメならば若君もろとも死のうと戸波に言いいます。
 気がかりは、さきほど出ていった小太郎の母が戻ってきたときの対応ですが、そこは、戸波も、もし小太郎の母が戻ってきても、そこは女同士でうまく言いくるめると言いいます。しかし、源蔵は、「大事は、小事より顕わる・・」母もろとも切る、と覚悟を決めます。

「せまじきものは、宮仕えじゃなあ。」と嘆息します。

(※源蔵は、若いころ、同じ家来の千代と恋仲になって勘当された身の上です。凜とした、思い切った決断力ができる色男でしょうか。)

 春藤玄蕃と病で駕籠に乗って松王丸が来ます。一緒に村の者がついて来ています。
 村民がついて来たのは、首切りの噂を聞きつけて、間違えられて自分の子供が殺されては大変だと、子供達を連れて帰りたいからです。
 
 それを見た春藤玄蕃は、「ヤア、かしましい蠅虫(はえむし)め、そんなこと勝手にしろ・・」と言いますが、首の見分役の松王丸は、ごまかされないよう、子供達の顔を、ひとり一人改めたうえで帰すことにします。
 親たちは、まるで、「干鮭(からざけ)を猫がくわえてゆくように」大切な自分の子を連れて逃げ帰ります。
 よだれくりも、「馬顔で、きりぎりすのような声をだして甘えて」帰って行きました。

 子供達が皆帰った後、松王丸は、子供の文机が一人分多いことに気づきます。


 春藤玄蕃と松王丸は、早く菅秀才を出せと詰め寄ります。家は数百人で包囲しているし、「死顔と生顔とは違う」などと言い逃れても無駄だと責めます。

 源蔵は、奥に入り、首(小太郎)を切り落とし、首の入った桶を持って来ます。松王丸に首検分を願います。
 偽首がバレたときは、切りかかるつもりの絶対絶命の緊張がみなぎります。

 松王丸は、検分します。確かに菅秀才の首で間違いないと言います。

(※もう、おわかりでしょうが、菅秀才の身替わりになった、松王丸と女房・千代の子・小太郎の首です。
 この時、春藤玄蕃の視線は、首ではなく、松王丸の顔ですね。だって、春藤玄蕃は、顔を知らないのですから。従って、松王丸も、決して悲しい顔は見せられません。
 余談。「首」が出てくる話に、「一の谷・・」や「妹背山女庭訓」など、ありますね。オペラ「サロメ」もヨカナーンの首を落とす音がする場面があります。)

 春藤玄蕃は、「でかした。」と言い、源蔵には、褒美として、匿(かくま)った罪を許すと言い、早速、時平の元に急いで帰ります。

 源蔵と戸波は、天がなした不思議な力だ、と喜びます。
 そこに、先ほど懸念したとおり、新しく寺入りした小太郎の母・千代が戻って来ました。

 源蔵は、切り捨てようとして、切りかかりますが、したたかな千代は、さきほど持参した文庫で刃を受けとめます。
 刃を受けて、2つに切られた文庫から、経帷子(きょうかたびら)と六文字書いた幡がこぼれ落ちます。

 千代は、涙ながらに「若君菅秀才さまの御身替わり、御役にたてて下さんしたか、・・様子が聞きたい。」と言いいます。

 経帷子は、仏式で死者を葬る時に着せる白無地の着物で、背に仏の名号を記したものです。
 六文字は、「南無阿弥蛇仏」を書いた白地の布です。

 いずれも、子供を失う覚悟が伺われるものです。

 松王丸が現れ、「・・女房悦べ、倅はお役に立ったやい。」と言います。

 源蔵は、これまで敵と思っていたがどうしたことか尋ねます。

 松王丸は、兄弟3人が分かれて、しかも、自分は親とも縁を切って、時平に奉公し、恩を受けた菅原道真(菅丞相)に敵対することになった苦しみを語ります。

 作病(仮病)で、主に暇を願ったところ、菅秀才の首を見たなら願いを叶えるということなのですが、とても、源蔵は菅秀才の首を討つなど無理であろうから、女房と相談して、我が子を先回りさせて身替わりとしたことなどを語ります。

 千代は、先ほど寺入りした際に、小太郎が、いつになく母と一緒に行きたいといった時の別れの悲しさ、きっと、冥途の旅の寺入りと思っていたのか。
 寺入りの祝儀が香典となっていたことなど思い・・慟哭します。
 松王丸は、覚悟のうえではないかと女房をたしなめます。

 奥に隠れていた菅秀才にも聞こえて、秀才が出てきて、今の話を哀れに思います。

 松王丸は、菅秀才に「ついでながらの御土産(おんみやげ)」を持参した、と言い、近くに駕籠を運ばします。
 駕籠には、北嵯峨で捕らえられるところを、助けられた菅秀才の母が乗っていました。親子の対面です。

 母を助けたのは、山伏姿の、実は、松王丸だったのです。

 駕籠に、小太郎の遺骸を乗せ、野辺送りすることにします。
 そのとき、戸波が抱いてきた小太郎の着物の下は、白の死に装束でした。すでに死を覚悟していたのです。

 「親に代わって恩送り、お役に立つは孝行者・・」。小太郎は、源蔵に、にっこり笑って、自分から首を差しだし、立派な最期だったことが源蔵から語られます。

 松王丸も、白無垢上下の装束、千代も白無垢。野辺の送りです。

 源蔵は、野辺の送りは我々夫婦がする、と言いますが、松王丸は言います、
「これは我が子ではありません。菅秀才の亡骸で、そのお供です。」と。
 菅秀才、その母もしゃくりあげて泣きます。

冥途の旅へ寺入りの。
師匠は弥蛇仏、釈迦牟尼仏。
六道能化の弟子となり。
賽の河原で砂手本

~「いろはうた」が謡われます。

(※子の命よりも忠義が大切、と言うことに関しては、武家道徳を仏教布教の為の説話に取り込むことで、武家階層にまで信仰圏を拡大しようとする天台系唱道僧の意図があらわれているものであるという、興味深い指摘があります(小林直樹「身替わり説話形成の背景」。「上方文化講座」所載))

(※昔、「寺子屋」で子供たちは、まず、「いろは」の仮名や「数字」を習い、だんだんと、「名頭(ながしら。名前に使う文字)」「村尽(むらずくし。村名前を書きながら学ぶ)」「国尽(くにずくし)」「手紙文」を習い、その後、「商売往来」や女子では「女庭訓」(文楽の外題にもありますよね、これを使った「妹背山女庭訓」とかが。)などを学んでいきました。
 また、一説には、寺子屋は今のコンビニほどあった、とも言われます。
 邪推ですが、これは、寺子屋関係者からの観客動員にも資することになります。)


五段目~(大内の場)
 6月下旬、都では、毎日、稲妻は走り、雷雨が襲っています。
 法皇は、判官代・輝国、斎世親王、刈屋姫を、寝殿で玉体安全祈願中の僧正の元に送り、天皇からの菅丞相の無実の罪を許し、菅秀才の家督相続を進言しました。

 このことを春藤玄蕃から聞き及んだ、時平は、驚き、希世と清貴を従え寝殿に向かいました。
 菅秀才を拉致し、時平は、同人を殺せなかった(「寺子屋」)春藤玄蕃を殺し、さらに、希世と清貴に斎世親王、苅屋姫拉致を命じましたが、大雷鳴が起こり、希世と清貴は、逃げ惑います。やがて、希世と清貴に雷が落ちて死んでしまいます。
 
 なおも菅秀才を脇に抱えて抵抗する時平に桜丸と八重の死霊が襲い、ついに、死した。死霊は、時平を庭に蹴落として嬉しそうに姿を消します。
 空は晴れ、太陽は輝きを取り戻します。
 苅屋姫と菅秀才は、庭に下りて、父の仇、と時平を刺し通し、刺し通し、ました。

 苅屋姫と斎世宮の安否はどうかと、松王丸と輝国が参内し、白大夫と梅王丸も太宰府から参上し、桜丸の怨霊が時平を成敗した一部始終を聞いて喜びました。

 僧正も斎世宮を伴って現れ、「皆の願いどおり、菅秀才は家督を継ぎ、菅丞相には正一位を贈り、右近の馬場に社殿を建立して南無天満大自在天神と尊敬して、皇居の守護神とする」天皇の宣旨(せんじ)を伝え、一同は喜びました。

~幕

参考:
 今回の「予習」は、2011年2月、国立劇場・文楽公演「菅原伝授手習鑑鏡」の「予習」に、大幅に加筆したものです。

 『日本古典文学全集(浄瑠璃集)』(小学館)

 『日本古典文学全集 72(菅家文草・菅家後集』(岩波書店)

を参考にしています。

 なお、「寺子屋」の参考書はたくさんあります。先の「上方文化講座・菅原伝授手習鏡」(和泉書房)のほか、沼野正子「今宵も歌舞伎へまいります」(晶文社)、小笠原恭子「現代語訳歌舞伎名作集」(河出文庫)、「歌舞伎オンステージ⑫菅原伝授手習鏡」(白水社)~歌舞伎と文楽で多少流れが異なりますが、予習にはお勧めの良書です。)

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Author:感動人
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 「引退後」、たっぷり時間をかけて、いろいろな芸術を初心にかえって学び、横断的に、楽しんでいきたいと思います。もうひとつ、心身共に健康に「年をとっていく」ための、生活のマネジメントも「同時進行」でお伝えします。
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