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12月文楽公演、『恋娘昔八丈』、『大塔宮曦鎧』、を予習します。

 12月東京国立劇場・文楽公演は、『恋娘昔八丈』と『大塔宮曦鎧』が演じられます。
 今回は、この2演目を「予習」してみます。

1、まず、はじめに、
 
恋娘昔八丈(こいむすめむかしはちじょう)』。

『お駒才三(おこまさいざ)』、
とも言われます。

 安永4年(1775年)8月に、江戸!、外記座で、初演された、世話物、7段、の物語です。

 今回の公演は、5段目(城木屋の段)と、7段目(鈴ケ森の段)のようですが、理解を深めるために全段書いていきます。

 作者は、松貫四(まつかんし)と吉田角丸(よしだかくまる)。合作です。

 余談ですが、これに、
そりゃ聞こえませぬ、才三さん・・」、
というクドキが出てきます。

「堀川」(「近頃河原達引」)のお俊のクドキに、
「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん・・」、
という有名な見せ場がありますが、こちら「城木屋」のクドキほうが約8年前です。


 まず、物語は・・、

第1段目(曲輪の段)
 萩原家の次男・千種之助(ちぐさのすけ)は、吉原・「中扇屋」の遊女・十六夜を請け出すために、家の秋月一角にそそのかされて、家宝・勝時の茶入れを、一角と悪人・喜蔵【後述の実説、又四郎】、丈八【同、忠八】らに騙しとられる。


第2段(道行き・夢路の二つ雁)
 千種之助は、これを恥じて出奔する。
 萩原家では、家老・尾花六郎左衛門が、十六夜を痛めつけて、千種之助の行方を詮議する。
 十六夜は、夢で、千種之助と駆け落ちする。


第3段(屋敷の段)
 家老・尾花六郎左衛門は、息子・才三郎と、腰元(後述の、城木屋から、見習い奉公に来ている腰元)・お駒【同、お熊】の不義【当時、奉公人との恋は、不義として禁じられていたのはご承知のとおり。】に心を痛めている。
 家老・尾花六郎左衛門は、お駒を不義を理由に親元に帰し、また、息子・才三郎に若殿の身代わりに、家宝盗賊として、汚名を甘受させる。
 萩原家の後室・名月院は、家老の忠義を見抜いて、才三郎に、家宝の探索を命じる。


第4段(祭の段)
 息子・才三郎は、一角から、家宝を取り戻そうと争い、一角を殺してしまう。
 家老・尾花六郎左衛門は、我が子の科を引き受けて切腹する。


ここから、今回の舞台・・・、


第5段(城木屋の段
 お駒の父、5年ほど前から目を患って見えない・城木屋庄兵衛【同、白子屋庄三郎】は、借財に苦しんで、嫌がるお駒に、持参金付きの婿・喜蔵【又四郎】を迎える。

 お駒は、髪結いにやつした才三郎と逢瀬を続けている。

 婿養子の父は、才三郎に髪を結ってもらいながら、同人とお駒にそれとなく意見をする。
 家付き娘の、母は、お駒に、灸をすえてもらいながら、暗に、想う人と添い遂げることを勧め、家出を勧める。路銀のある戸棚の鍵もそれとなく渡す。【封建時代において、この筋は、注目すべきところ。】
 お駒に横恋慕の才八【忠八】のチャリ場。
 喜蔵から、袱紗(ふくさ)につつんだ家宝を預けられ、驚く才八。

 才三郎は、喜蔵が、家宝の盗人と察し、お駒に探りを入れさせる。
 
 才三郎とお駒の仲を見咎めた喜蔵は、才三郎に切りかかるが、逆に、お駒に殺される。

【細かくは、縁の下に隠れていた才三郎が喜蔵に引っ張り出され、力のある喜蔵に殺されそうになったところ、お駒が、喜蔵の落とした刀で刺す、いわば、緊急避難的なもの、というのが本当。】丈八が訴えに走り、才三郎が後を追うが、役人が来てお駒が捕らえられる。


第6、7段(評議の段・鈴ケ森の段
 お駒が引き回しの上、鈴ケ森の刑場で処刑されようとするとき、千種之助が家宝を取り戻し、才三郎に丈八を引かせて来て、喜蔵、丈八は、家宝盗賊で才三郎の親の仇であることを訴えた赦免状を持参し、お駒は赦免となったことを伝える。

(お駒が着ている小袖は、目にもあざやかな山吹色の着八丈。)


 さて、参考までに、実説は・・、

 1727年12月7日決着の「白子屋事件」で、芝居小屋がある江戸新材木町の、材木屋「白子屋」の娘・お熊(23歳)が、手代・忠八と通じ、下女・きく(18歳)を唆して、婿の又四郎を殺そうとした未遂事件が露見して、獄門となったものです。
 余談ですが、「熊」の名では、芝居に色気も出ません。

 お熊の父・白子屋庄三郎は、世事に疎く、どちらかというとぼんやり者。

 妻・お常(49歳)は、しっかり者で亭主を尻に敷いて、派手、どちらかというと欲も深い。出入りの髪結と通じていた。
 お熊は、美人で、母親に似て派手、家が芝居小屋にも近いせいか、芝居のような衣装を好んでいました。身持ちもよくなく、手代・忠八とも通じていた。
 あげく、使用人まで、みな、身持ちが悪い家の雰囲気になっていたといいます。

 人を介して、お熊のところに来た婿(むこ)は、持参金500両付きの、大伝馬町の地主の手代・又四郎で、お熊との間には、子も出来ました。

 家が傾き、いよいよ家を売らなければならないはめになったのですが、懇意にしていた加賀屋長兵衛の仲介で、暮らしをやり直すことにしました。

 お熊は、又四郎を離縁したいが、それには、持参金を返さねばならず、結局、お熊、お常、忠八が共謀して毒殺しようとしたが、下人の密告で発覚し、又四郎は、加賀屋長兵衛宅に逃げました。
 長兵衛が間に入って又兵衛をなだめ、結局、家を長兵衛が500両で買って返済することにしました。
 しかし、忠八らは、その金を返すのが惜しくなり、下女を教唆して、心中を装って殺そうとしたが、又四郎に取り押さえられ、町奉行に訴えられ、捕まりました。

 
 大岡越前守の裁きで、お熊は、市中引き回しのうえ獄門。忠八、同。下女、死罪。お常、遠島。庄三郎、江戸追放。


 お熊は、処刑の時に、下着白無垢で、黄八丈の小袖を着て、襟に、水晶の数珠をかけ、法華教を唱えていたとかで、このことから、江戸では、しばらく、黄八丈の着物は忌み嫌われたとか。


 逆に、後年、このことが脚色されて、芝居になってからは、「黄八丈」の着物の色が大ブームになったとか。


 なお、もともと、「黄八丈」は、江戸時代に、租税として献上された高級品で、将軍家や大名、御殿女中という限られた者が着たものだとか言われます。
 

 この演目に影響されたものに、「髪結新三」(「梅雨小袖昔八丈」)、「権八」(「其小唄夢廓」)などがあります。


ちょっと、「休憩」。

 
2、次は・・・・、

大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)』。

『身替わり音頭』、
『太平記曦鎧』、とも言われます。

 と、言っても、120数年間演じられたことのない演目で、資料がほとんどありません。
 ホントは、こういうのは、日生劇場が、秋のオペラでしているように、「勉強会」を開いてくれると良いのですが。
 例えば、今年、11月の日生劇場『リア』は、4、5回、いろいろな講演会・シンポジウムなどを開催します。また、国立能楽堂だって、復活能では、講演会などを開催しています。


 さて、これは、享保8年(1723年)2月、竹本座初演された、時代物、5段、の物語です。

 今回は、明治25年(1892年)以来の復活上演とかで、3段目を中心に、わかる限りの、あらすじを書いてみます。
 もっとも、一番のポイントは、どの子が殺されるか、でしょうが、バックには大きな歴史のうねりがあります。
 そのうねりの中での人物の立ち位置を理解しておくことが重要でしょう。


 作者は、竹本出雲、松田和吉、添削は、近松門左衛門です。

 時代は、14世紀。
 源頼朝死後、鎌倉幕府の実権は、祖先が源氏系の執権・北条氏、しかも、その内管領(うちかんりょう=家政を司る者)にあり、政治が乱れ出した頃の物語です。


 幕府を倒そうとした、後鳥羽上皇の「承久の乱」(1221年)は、失敗に終わり、後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐に流されました。

 3上皇らの北条氏に対する恨み、同時に、全国3,000か所の領地を召し上げられた武士の恨みは、やがて、次の倒幕に向かいます。
 また、北条氏と同根の源氏系でありながら、政権で冷遇されていた新田氏などもいます。
 
 しばらくして、天皇は、後深草天皇から発する「持明院統」と、亀山天皇から発する「大覚寺統」から出す、いわば、タスキ掛け人事となりました。
つまり、
後伏見天皇:「持明院統」→
後二条天皇:「大覚寺統」→
花園天皇:「持明院統」→
そして、
→後醍醐天皇:「大覚寺統」
という順です。

 ここで、政治的野心が満々の、そして、それが最大の関心事である後醍醐天皇が、登場しました。

 「大覚寺統」の後醍醐天皇が、花園天皇(「持明院統」)の後任含みで皇太子になったのが21歳のとき。
 花園天皇は、在位10年で後醍醐に譲りますが、この時、「天皇の在位は10年間」とする約束(「文保の御和談」、1331年)が出来ました。
 しかも、この条件のなかには、将来、後醍醐の子孫は、皇子としない、こともありました。


 後醍醐が、これを覆すには、バックに隠然と実権を持って差配する幕府を倒す、「倒幕」の手段しかありません。

 それに、時代の客観情勢が、反幕府に有利になってきました。

 元寇による財政難、武士への報償領地不足、徳政令への商人の不満、大飢饉(1321年)などに加えて、12歳の執権・北条高時は、うつけ者で、長じて、5千匹の犬を集めた闘犬に熱中したり、37人の妾を抱えたり、田楽、猿楽にうつつを抜かすなどで、幕府の実権は、執権どころか、その執権家の内官領がにぎるところとなりました。


 後醍醐は京で、大乱への道に賭け、「異形」の天皇、と言われたように、様々に同士を集めました。


 最初の乱は、「正中(しょうちゅう)の変」(1324年)です。

 ちょうど、「文保の御和談」で、地位を譲らなければならない3年前になっていました。
【史実では、ここに、土岐頼員の密告の事件があります。】

 この反乱は、結局、密告で失敗しましたが、後醍醐自身は、周囲の者の責任にして、何とか、責任回避しました。
 

 2度目は、「元弘の変」(1331年)です。

 ところで、後醍醐天皇は、96代天皇で、後に、南朝初代天皇となりますが、その第一皇子に、


大塔宮護良親王

(おおとうのみや、もりよししんのう)、

がいました。

 いみな(実名)は、《もり「なが」しんのう》、とも言われましたが、大正からの学問的通説は、「よし」となっています。

 ちなみに、「おおとうのみや」も、比叡山の大塔の読み名「おおとう」から来ていますが、「大平記」巻5の、奈良般若寺での大塔脱出のくだりの賊たちの台詞回しから、「大唐」にかけて、大塔も「だいとう」と読むほうが文学的であるとう説もあります。

「大塔」、というのは、京、東山・岡崎の法勝寺(ほっしょうじ)の巨大な、九重の塔の近くに門室があったからだと言われます。


 母は、北畠氏二代・権大納言・師親の娘・親子(しんし。1275ー1333)です。
 ちなみに、後醍醐天皇を取り巻く女性は、妃の全部で20名、子は38名いました。
 同天皇が、最も、寵愛したのが、河野公廉の娘・廉子(れんし。1302ー1359)です。皇子は、恒良、成良、義良(=後村上天皇。12歳で後醍醐の後をつぎました。)です。


 護良が、生きたのは、【1308ー1335】、で、28歳で死んでいます。


 後醍醐天皇は、2度目の倒幕を狙って僧、非人、悪党まで動員して(「無礼講」の名の宴会をさかんにしてオルグもしました。)戦の準備をしました。
 
 なかでも、護良親王を、2度(20歳:117代、21歳:119代)にわたって、天台座主とし、事あった時に比叡山の僧兵3千人を味方にする対策をとりました。


 しかし、「元弘の変」(1331年)も、幕府に知られるところとなり、今度は、後醍醐天皇は、隠岐に配流となりました。
 この乱では、護良親王も、還俗して、鎌倉幕府を滅ぼすために、密かに、反幕勢力を募って活動していましたが、乱の失敗後は、潜伏し、楠木正成(楠多聞兵衛正成)らと機会を伺い、地下活動を盛んにすることになります。


 つまり、護良親王は、後醍醐復権のために、2年余、ゲリラ戦、情報戦を、笠置、赤坂、十津川、吉野、高野山・・、などで行うなど、大活躍しました。なかなか魅力的な人物です。


 やがて、護良親王、後醍醐天皇は、護良親王とずっと戦った河内の楠木正成、播磨の赤松則村と協力して、しかも、なんと、足利尊氏が幕府側を裏切って加わり、六波羅探題を落とし、新田義貞が鎌倉に攻め込んで、幕府を倒して北条氏が滅び、政権の座につきます。「建武の親政」、1334年6月です。

 なお、足利氏第八代・足利尊氏の妃は、北条氏一族の登子ですが、第二、三、四、六代も、北条氏の娘と婚姻しています。念のため。
 尊氏は、ちなみに、後醍醐天皇が、護良を征夷大将軍にしたときに、引き替えに、尊氏を鎮守府将軍として、また、その名を、いみなの尊治(たかはる)から一字とって、尊氏と改名させました。それほど、当初は信頼されていました。


 新政府で、後醍醐天皇は還御し、護良親王も兵部卿・征夷大将軍として活躍したのですが、やがて、徐々に、後醍醐天皇と足利尊氏とが離反・対立するに至ります。

 所詮、民のための政治よりも、権力欲一杯の後醍醐天皇、さらに、同じ穴の狢の足利尊氏です。


 護良親王は、尊氏の野心を見破り、用心していたのですが、後醍醐は聞き入れず、しかも、後醍醐の愛妾・河野廉子(れんし)は、自分の子を帝位につけるのに護良は邪魔で、寝物語に護良の謀反などを吹き込みます。やがて、護良親王の悲劇となります。


 さて、えらく長い前置きになりましたが、このような知識を踏まえたうえで、

文楽の物語は・・・、


 土岐頼員(ときかずより。美濃源氏土岐氏で、北条専制下で恵まれていない。)の妻・早咲が、六波羅探題【京の守護にあたるが、北条義時以来は、特に、実質上、朝廷の監視にあたる。】の奉行である父・斎藤太郎左衛門を味方にしようとして、倒幕計画を漏らしたことから、計画が露見し、宮は逃亡し、頼員は自害、若宮と母・三位局は、捕らわれて永井右馬頭の邸に預けられます。

【実説では、土岐頼員が、事が成功しないのではないか、と怖れて、六波羅に密告したと言われます。】

 鎌倉(幕府)の名代・常盤駿河守は、三位局に恋し、艶書を送って意に従え、としますが、天皇還御を図ってくれたら、との返事に激怒し、太郎左衛門に、切籠灯籠を渡して、若宮を切れと命じます。

【実際の、三位局とは、藤原為通の娘(1298ー1351)。「元弘の乱」の頃、33歳。皇子は、懐良(かねなが。1329ー1385)】

 永井夫婦は、一子・鶴千代を身代わりとして若宮を守ろうとします。
 
 奥庭に切籠灯籠を一面に灯して大勢の子どもが輪になって盆踊りを踊っています。

 緊迫した風に、子どもを、一人ひとり検めていた太郎左衛門は一人の子どもの首を討ちました
 それは、孫の力若だった。
 娘や婿を犬死にさせないため、と悲嘆にくれて、永井夫婦に言うのでした。

 
 ・・・文楽は、ここまで。
参考に、その後のお話です。


 所詮、皇統を自分の子孫で伝える地位がほしいだけといってもよい後醍醐天皇。
 それを横取りしたいだけといってもよい足利尊氏、の世の中は、うまく回るはずがありません。
 特に、足利尊氏は、征夷大将軍の地位を欲していました。

 余談ですが、尊氏の執事が、「忠臣蔵」で、名を引用される、高師直(こうのもろなお。武蔵・三河守。)です。


 護良親王は、奸策で、捕らえられて【1334年11月】、尊氏の弟、直義(この名も、「忠臣蔵」で使われていますね。)の監視下におかれ、さらに、鎌倉の東光寺(現在、鎌倉宮=鎌倉市二階堂)の土牢(現存します。ただ、実際は、厚い壁に囲まれた部屋だったとも。)に9か月間幽閉され、やがて、残党を集めた北条時行が攻めて来て【中先代(なかせんだい)の乱】、直義の命を受けた淵辺義博(ふちのべよしひろ。伊賀守)に殺されました【1335年8月】。
 
 護良は、素手で刀と戦いましたが、切られ、首をかき切られましたが、あまりの形相に恐ろしくなった淵辺は、藪に首を放り捨てたとか。

 やがて、公家の藤原保藤の娘・南方(みなみのかた)に弔われました。


 また、余談ですが、後年、直義は、廉子(れんし)の皇子である、成良(しげなが)、恒良(つねなが)も毒殺しますが、尊氏・高師直と対立し、自らも毒殺されます。


 歴史としてはこの後・・、

足利尊氏・高師直 対 直義、直冬の争い、
足利幕府(傀儡としての北朝) 対 南朝、の約60年間にわたる南北朝時代(吉野朝時代)、
北朝が南朝を甘言で《和睦・合体》する、
旧・北朝の違約に旧・南朝の抵抗の時代、
応仁の乱、
下克上、
戦国時代、
と、そこでの南北朝の無意味化、織・豊時代、へと大きく向かいます。
 民衆は、大変・・・。

 なお、「南朝」方を、「太平記」では、「宮方」と言っています。「宮方」と「武家方」の争い、つまり、「天子」と「将軍」の争い、というわけです。


参考:国立劇場上演資料集・58(1970年11月)、73(1985年5月)、89(1989年9月)、参考:金沢康隆『歌舞伎名作事典』(青蛙房・1976年刊)、「網野善彦著作集 第6巻」(岩波書店)、「近松浄瑠璃善本集成 第5巻」(株式会社クレス出版)、安藤英男『南北朝の動乱』(新人物往来社・昭和59年)。

追記、来週は、泊りがけで、地域の民生委員と、静岡に「ねむの木学園」を訪ねます。三保の松原にも寄りますので、35歳で亡くなった、「羽衣」を愛したフランスのバレリーナ、エレーヌ・ジュグラリスの碑も訪ねられたら・・と考えています。

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Author:感動人
 芸術全般を愛する団塊世代です。
 「引退後」、たっぷり時間をかけて、いろいろな芸術を初心にかえって学び、横断的に、楽しんでいきたいと思います。もうひとつ、心身共に健康に「年をとっていく」ための、生活のマネジメントも「同時進行」でお伝えします。
 のんびりと過ごしたいと考えています。お寄せいただくコメントなども、論争などは避けて、ゆったりしたお話をお寄せください。

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