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「仮名手本忠臣蔵」9段目、逆勝手あるいは駒下駄のところを注視します~近松後の人形浄瑠璃を懸命に走った人々と人形浄瑠璃の《人形歌舞伎化》の始まりを研究してみます。

 このブログの、『仮名手本忠臣蔵』のところで、このように書いています

・・・・「(余談ですが、この興業の最中に、竹本座内で、9段目を発端に、人形遣いと太夫間の内紛が起こり、4人の太夫が出てゆき、代わりに4人が豊竹座から移籍して入ってきています。それでも、興業に影響は出ませんでした。)
 文楽【人形浄瑠璃】から歌舞伎、その歌舞伎の影響による文楽、といった、せめぎあいがあります」・・・、

 http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-366.html をワンクリックで、全文がご覧になれます。

 どうも、気にかかっていたのが、どのような争いがあったのか、ということと、
(それに舞台では、通常、下手の門口が、これに限っては、上手の、いわゆる「逆勝手」の舞台配置です。これも、この事件に関係あるのでしょうか。)

 もう一つは、近松前期の芸術至上主義的な傾向が、その後の、人形浄瑠璃の興業化、つまり歌舞伎化されていったことへの影響です。

 そこで、この二つを研究してみました。

 前者については、資料が、なかなか不明な点も多く、苦労しましたが、一応、ここで区切りをつけて、まずは書いて見ます。今後、さらに研究したいと思います。

 結論の大きな背景から言いますと、

1 竹本座は、二代目竹田出雲のもとで、近松の人形浄瑠璃全盛期を過ぎた時期に、東の豊竹座の追撃の中で、人形遣い・吉田文三郎が、新機軸で座を盛り返しました。
 しかし、しばしば横暴なやり手、文三郎の個性は、周囲とさまざまな軋轢も生んでいました。

2 また、文三郎らの努力は、歌舞伎的な「興業」形態に色濃く影響を受け、人形歌舞伎化の傾向に向かった、といえるのでしょう。


 細かく見てみます。

 
 1748年8月14日、「仮名手本忠臣蔵」が初演されました。
 作者は、竹田出雲、三好松洛、並木千柳です。立作者は、並木千柳と言われています。
  
 この時、人形遣い、初代吉田文三郎(生年不詳~1760)は、由良之助と勘平母の二役を遣っていました。

 吉田文三郎は、二代目竹田出雲(1691~1756)の元で、作者・近松門左衛門や、近松が応援した太夫・竹本政太夫の個性を前に出した、演劇風の内面を重視した舞台の方向に沿い、後述するように、人形に様々な工夫を生かしていった人形遣いでした。
 しかし、もう一つ、歌舞伎の芸を人形に取り入れて、人気を高めたところもあります。そして、このことが、太夫よりも人形の発言権を強めていったことも否定できません。

 例えば、初代吉田文三郎の功績は、・・・、

 1715年「国姓爺合戦」で、舞台転換の工夫で17か月の入りに寄与したり、
 1728年には、「加賀国篠原合戦」で、正面にあった太夫の床を人形と舞台を重視して、右に移したり
 1733年には、「車返合戦櫻」で、人形の指を動く工夫をしたり、
 1734年には、《三人遣い》を始めたり【歌舞伎役者の芸を真似た、「人形歌舞伎」化と言われますが。】、
 1736年には、人形の眉を動かす工夫をしたり、

さらには、初代竹本政太夫死後も、

 1745年には、「夏祭浪速鑑」で、本水本泥を使ったり、
 1747年には、「義経千本桜」で、忠信狐の耳を動かしたり・・、
 様々な改革や工夫をして、座の経営に寄与し、実績を残していました。
 

 さて、「仮名手本忠臣蔵」の初日から数日後のことです。

 吉田文三郎は、二代目豊竹此太夫(1726ー1796)に、9段目について申し入れをしました。

 
 それは、大星由良助が、加古川本蔵に感じ入り、自分の討ち入りの決心を打ち明け、加古川本蔵からは、高(武蔵守)師直屋敷の、絵図面を差し出す場面です。
 
 加古川本蔵から得た図面をもとに、由良之助が、師直の舘の、厳重な雨戸を外すアイデアを話す時に、「雨戸をはづす わが工夫。仕様をここに見せ申さん。」と、雪深い庭に下りる、ところがあります。


 ここで、文三郎は、「早すぎてそこまで行けないから、もうちょっと延ばして語ってほしい」・・というような要望をしたようです。


 此太夫は、理解を示したのでしょうか、それとも、日頃の文三郎の横暴を苦々しく思っていたのでしょうか、一応理解を示しつつも、「初日前なら兎も角、既に、何日か経ってしまっているものを、今更、変えられない。」というような返事をしたようです。


 文三郎は、「いったんお願いしたには、弟子の手前もあるので、是非聞いてほしい」
 
 此太夫「一端変えられないと言ったものは、芸の面目にかけても、変えられない」と、譲りません。

 もう、意地の張り合いのようになりました。


 困ったのは、竹田出雲。座員とも評議します。
 
 余談ですが、このような時に、地味で、悪声と言われながらも一途に芸に励み、近松門左衛門もこれに感じて応援を惜しまなかった、よく人間の出来た太夫であった、二代目竹本義太夫、即ち、初代竹本政太夫(1691~1744)がいれば仲介できたかもしれませんが、すでに1744年7月(延享元年9月)死去しています。
 この竹本政太夫は、美声の豊竹若太夫が東の豊竹座を開いて、ともすれば西の竹本座は、客を取られがちでした。
 そこで、この品行高潔な努力家である政太夫を、近松門左衛門は、「国姓爺合戦」を書いて足掛け3年以上の大入りにし、これをきっかけに、政太夫と竹本座の人気は急上昇しました。
 勿論、その近松門左衛門も、既に、1724年に他界しています。


 そのポスト近松時代の人形浄瑠璃を盛り立てるべく、懸命に走っていたのが、ここに出てくる、2代目出雲、文三郎でした。


 話を戻します。

 結局は、多少横暴なところはあっても、人気、実力、座への貢献度の高い文三郎の意見を通して、太夫に譲歩してもらい、万が一ダメなときは、此太夫を「休場」扱いにして、代役を立てることにしました。


 此之太夫は、あっさり、竹本座を出て、豊竹座に移籍しました。弟子の島太夫、百合太夫など何人かも従いました。

 文三郎の勢力は、ますます強大になりました。由良之助の紋所は、文三郎の「二つ巴」を付けています。
 この事件は、人形浄瑠璃の人気が、人形中心になっていく傾向ともなってゆきました。
 
 ・・と、このようなトラブルであったようです。


 ちなみに、後年、文三郎は、もっと自由にやりたくなって《独立》しますが、やはり、竹本座あっての彼で、興業師ではないので、うまく行かず、さらには、穴が空いた竹本座も衰退傾向になり、やがて、1767年に幕を閉じることになります。

 江戸にいた、此太夫はあわてて、大阪に帰り、1767年に自分の座を作ります。

 なお、同じ頃、豊竹座も1761年と1763年の二度火災などがたたって、1765年に幕を閉じ、同じ巡り合わせになっています。
 植村文楽軒(文楽軒とは、素人浄瑠璃の雅号)が、1800年代始めに登場するまでに、あと約半世紀を必要とします。
 ちなみに、「文楽座」の名称が正式に掲げられたのは、明治5年のことです。


 逆に、前の時代に戻って敷衍しますが、この時代前の、近松時代は、初代竹田出雲、近松門左衛門、それに出雲に座元を譲って太夫に専念した初代竹本義太夫の活躍期で、まさに「人形浄瑠璃全盛期」でした。
 この時に、人形の、辰松八郎衛門は、歌舞伎の影響で、「出遣い」をしました。この辰松八郎衛門は、初代義太夫死後には江戸に下ってしまい、そこに文三郎が登場したのです。

 近松死後、じわじわと、「人形歌舞伎」化が進んでいき、テンポも遅くなってゆきます。
 上演形態も、タテ(通し)ではなく、「(よりどり)みどり」化が進んでいきます。

 義太夫も、平舞台で、「出語り」をしましたが、義太夫を継いだのが、先ほど登場した、二代目竹本義太夫、即ち、初代竹本政太夫です。

 いま、人形浄瑠璃文楽の活性化がいわれますが、この時代は、希代の興行師、天才的な人形遣い、太夫、三味線、作家が能力を結集して、補助金などなく、むしろお上に圧迫されつつ、何軒もの芝居小屋が切磋琢磨して名作を競っていたのです。これは、考えるとものすごいことです。

 で、話が飛躍しますが、例によって、松井今朝子さんの小説には、新米役者の、勿論男性ですが、陰間茶屋で体を売っていたとか、芝居茶屋の話とか、いろいろな歴史のヒダが出てきますので、平行してこのような読書も必読だと思います。
 
参考:内海繁太郎「文楽の芸術」(三笠書房)
三宅周太郎「文楽の研究」(岩波文庫)など。


【検索の便のために、11月観劇の予習記事を下記に掲げておきます。】

○11月、日生劇場、ライマンのオペラ『メデア』の予習は、次のアドレスをワンクリックするとアップします。

http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-342.html


○ご参考に、シャルパンティエの『メデ(メデア)』です。

http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-350.html

○ご参考に、エウリピデスの『王女メデア』です。

http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-291.html

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Author:感動人
 芸術全般を愛する団塊世代です。
 「引退後」、たっぷり時間をかけて、いろいろな芸術を初心にかえって学び、横断的に、楽しんでいきたいと思います。もうひとつ、心身共に健康に「年をとっていく」ための、生活のマネジメントも「同時進行」でお伝えします。
 のんびりと過ごしたいと考えています。お寄せいただくコメントなども、論争などは避けて、ゆったりしたお話をお寄せください。

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