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辻邦生 『西行花伝』 ~ 再読し、陶酔しました。丁寧に中世史を辿りながら、西行の心の懊悩に触れた、静かな語りかけの感動に浸ることができました。

 このところ中世史や定家に関する書籍を読んでいて、書斎の棚にでんと鎮座している、多分、20年近く前に読んだ、

辻邦生 『西行花伝』(新潮社)

を再読しました。
 間もなく73歳の齢、この書に陶酔(ふかよい)してしまいました。

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 また、思えば、西行終焉の地「弘川寺」最寄りの、南河内の寺内町(戦国の世には、アジュール(治外法権)であった)、富田林(とんだばやし)は、歌人・石上露子(いそのかみ つゆこ。1882-1959)に興味を持って行って、馴染みがあるんですが、弘川寺まで足をのばさなかったのに後悔しています。
 余算山の端近くなって、これから行けるかどうか。

 辻邦生(つじ くにお。1925-1999)、1995年刊行の、箱入り上製・細かい活字の525頁で、ずしりと重く、読んでいて、手と目が疲れました。
 このブログも、4,800字となります。ゆっくりとお読みください。

 書中に、昔の十数枚の付箋が付いています。今回は、マーカーを引きながら読みましたが、その箇所は、付箋と同じ箇所でした。これは、喜んでいいのやら、頭脳進歩に不安やら、やや複雑です。
 今回は、「歴史年表」(三省堂)、「山家集」(宇津木言行=校訂)を丁寧に参照しつつ、さらには、スマホで、一つ一つ歌を検索しながら、メモもとりながら、すこぶる丁寧に読了しました。前回の読書には無かったことです。
 この先は、なお、「山家集」を座右に置いて、日々、拾い読むつもりです。

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 本書の構成は、西行の弟子、式部少輔・藤原秋実が、師・西行の実像、師の生きた姿を立ち返らせ、文にまとめるため、鎌倉二郎季正(西住)はじめとして様々な人を訪ねて、話を聞く設定となっています。
 余談ですが、朝井まかての新刊「輪舞曲(ロンド)」も、大正期の女優・伊澤蘭奢をこのような形で描いているようです(読まなければ)。
 話から、莞爾(かんじ)として平らかに保っておかねば生きていけないほどの心の懊悩が見えてきます。
 様々な人々の話を再現する一方で、克明に歴史の中の西行を追っています。それは、歴史書には無いミクロな風景を描いて、まるで、歴史の街中に佇んでいるようです。

 西行(1118-1190。もと、俗名・佐藤義清ーのりきよー、法名・円位)の精神史についても、巻末の参考文献を見ると、目崎徳衛「西行の思想史的研究」などが読み込まれており、西行の思想史的変遷(数奇より仏道へ)が、学問的にも信頼感があります。

 また、崇徳天皇・新院が、侍賢門院璋子と(鳥羽院では無く)男女関係のある白河院の子という設定は、刑部卿・源顕兼の「古事談」(1212-1215頃)を元に書かれています。これについては、太上天皇の内裏立入禁止の不文律から、後見役の白河院と鳥羽天皇のパイプ役を璋子が勤めていて、男女関係では無いとする説(樋口健太郎)があります。
 余談ですが、面白そうなので、「古事談」を読んでみたいと思っています。

 その意味では、小説的クライマックスがありませんが、それはそれで静かに語りかけてくる感動があります。
 
 西行の生涯は・・、

(以下、下記の「続きを読む」をワン・クリックしてお読みください。)


 まずは、和歌、ですが・・・、

 本書は、小説であって、和歌論文ではありません。
 それに、久保田淳氏が述べるように(「西行全歌集」解説)、「西行が、多くの日本人に親しまれてきながら、その享受者それぞれの思い描く西行像が先入主として存在するために、その和歌表現の多様性や伝統性、同時代歌人との共通性などにあまり注意が払われてこなかった」難しさがあります。

 なお、少し短歌について説明しておきますと、短歌は、詩であり、調べ(リズム)のある歌でもあり、歴史的には、声に出して詠んでいました。「神と和し、人と和す」のが真髄です。

 そこで、本書の西行は、和歌について・・、

 まず、作歌以前の歌人の生き方に注目します。
 歌を生み出す心を豊かにし、綺麗さを生きること。その綺麗さが溢れて、脳の内からこみ上げてくる高揚(たかぶり)が滴り落ちて来るものを、言葉の編み目で捉えると、歌になり、永劫(とこしえ)の姿に留められる、という心持ちでしょうか。
 その発端は、鳥羽院四天王のひとり、源重実(しげざね)に、ふとしたことから「雅」の心を教えられたことがきっかけかもしれません。

 言葉は、目に見えない力、精神に働きかける権能(ちから)を持っていて、その権能(ちから)は、人の心を変えること、現世(うつせみ)の、浮世の武力を超えたものです。
 崇徳新院の変成を幾度も求め、その配流先で、血書の大乗教を写経し、怨霊に満ちた死後(46歳。長寛2(1164)年)も、不運という宿命的な呼び名を否む底流もここにあるでしょう(西行51歳の時に、白峰の御陵ーみさぎーを訪ねました)。

 作中、崇徳上皇との会話で、「歌による政治(まつりごと)」と、何度も出ますが、これは、古来、「歌のみち」は、「敷島のみち」と称され、磯城島の宮のある国、つまりは、「大和」に転じ、「日本国」を表す「やまと」にかかる、歌を司る者は国を司る者、という知識を念頭に置く必要があります。

 余談ながら、私が好きな、崇徳上皇の歌は、「新古今集」巻18雑下にある、
うたたねは荻(おぎ)吹く風に驚けど 長き夢路ぞ覚むる時なき
です。
 さらに、お遊び・・、
 西行の実像に近いと思われる、「百人一首」(「小倉山荘色紙和歌」)から歌の英訳です。

 It is not you,Dear Moon,
   who bids me grieve
  but when I look at you face
  I am reminded of my loveー
 and tears begin to fall.

(「嘆けとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな」 西行「千載集」。
 意味は、「嘆けと言って月が私に物思いをさせるのでしょうか。いや、そうではありません。それなのにそれを月のせいにして、恨めしくもこぼれ落ちる私の涙ですよ。」)
  ピーター・J・マクミラン「英語で読む百人一首」(文春文庫)から。
 「山家集」に同じような歌があります。「恋しさをもよほす月のかげならばこぼれかかりてかこつ涙か

 閑話休題。ゆえに、西行は、この世を深く、豊かに、全身で生きるため、森羅万象(いきとしいけるもの)の中に、この世と一つになって変成(へんじょう)するため、浮世の我執、しがらみ、権勢欲を棄て、延保6(1140)年、23歳に出家、遁世の身となりました。

 歌の世界で、歌の師のひとり、鳥羽院の近臣・藤原為忠の教え、その「常磐の里」の歌人、何れも歌に秀でて、この世をいかに好く生きるかに心を砕く、為忠の子たち、為盛(後に出家して想空)、為業(寂念)、為経(寂超。「後葉和歌集」)、賴業(唯心房寂然)と交流します。厳しい、源顕仲もいます。
 また、この時代、藤原顕広(俊成)にも邂逅しています。

 次に、知られているとおり、西行の生涯を通じて、三条京極殿で出会って以来の、17歳上の、7人の子がある、鳥羽院の中宮・侍賢門院璋子(たまこ)への懸想、思慕があります。あだめいて、「二つの割れたような声」で喋る、その魅力的な姿が折々に浮かびます。
 侍賢門院璋子は、16歳の鳥羽天皇に18歳で中宮になりますが(因みに、この時西行は1歳)、白河上皇とも男女関係にあって、白河上皇の子・崇徳を生んでいる(元水2(1119)年)設定で物語が進んでいます。 これが、後の波乱の要因となります。

 因みに、侍賢門院璋子は、後には、藤原季通(すえみち)とも結婚し、永治2(1145)年に落飾して、久安元(1145)年に没しています(西行28歳)。物語では、ずっと、西行を敬慕しています。 なお、西行の田仲荘は、徳大寺家の知行地ですが、その徳大寺実能(さねよし。のちに、左大臣)の妹が、侍賢門院璋子なので、浅からぬ縁があります。

 長くなってしまいますが、侍賢門院璋子と宮廷内部の〈女の戦い〉は凄い。
 中宮(になったのは、18歳、元水元(1118)年)・侍賢門院璋子は、藤原忠通の姉で、藤原忠実の娘・勲子(のち泰子、さらに、皇后高陽院ーかやのいんー)には、同娘が、40歳で来た政略結婚だったからまだしも、17歳で後宮に入った(長承2(1133)年)、藤原長実の娘・得子(なりこ。のち美福門院)には、完敗の体。鳥羽天皇は、完全に得子に、文字通り溺れてしまいます。おまけに、大治4(1129)年、後ろ盾の、白河法皇が死んでいます。西行は、この時12歳。

 得子(美福門院)の子、體仁(なりひと)親王は、3歳で、近衛天皇になっています(17歳で死去)。この時西行23歳。
 因みに、その後の天皇は、四の宮雅仁親王で、侍賢門院璋子の子で、誰もが、推挙を躊躇った〈虚け者(うつけもの)〉でした。後白河天皇となります。

 もう一つ、これも出家に影響があったとよく言われますが、2歳上の従兄佐藤憲康(のりやす)の早すぎる死の衝撃もあります。
 佐藤義清(西行)は、弓矢、騎乗、さらには、蹴鞠(けまり。当時は、今のゴルフの様な位置付けで、なかなか難しく、流派もありました。)にも優れていて、文武両道の趣があり、また、出家しても、「方丈記」の鴨長明(1155-1216)のように、なかなかの情報通でした。

 佐藤義清は、18歳で兵衛尉になり、鳥羽院の下北面(げほくめん)の近習となっていますが、武勇に優れてはいたといえ、左大臣になった田仲荘の本所である大徳寺実能の働きかけや、もの凄い ! 佐藤家からの絹2千匹(疋ーぴきー。反物2反分で、約23メートル。馬1頭分)に及ぶ「成功(じょうごう。地位を買うこと。)」があったことは否めません。
 
 本書は、先述したとおり、秋実を通した西行を語りますが、西行の生涯を丁寧に、少しの漏れもなく書かれています。
 「西行物語絵巻」にあるような、出家にあたって、子どもを縁側から蹴落とした、という逸話は出て来ませんが。

 まさに、佐藤義清(のりきよ)、西行の成長と人生を辿ります・・、

 祖父・季清は、検非違使を勤め、父・康清(やすきよ)は、左衛門尉(さえもんのじょう)という武門の家柄、母・みゆきは、諸芸にすぐれ、父が、「梁塵秘抄」にみえる今様の達人監物源清経、とう家柄です。

 家は、和歌山・紀ノ川の佐藤家田仲荘の在地地主(本所は、大徳寺実能家)で、高野山領と争いの絶えませんが、肥沃な土地で、しっかり郷土を経営しています。
 義清は、母が鳥羽院乳母であった葉室顕賴の娘・荻の前との、やや政略がかった婚姻。

その間に、

越後頸城荘(くびきのしょう)の氷見三郎や奥州藤原基衡(もとひら)
の話が入り、

白河、鳥羽、崇徳、後白河の係累対立の詳細、保元・平治の乱、
清盛との邂逅、
侍賢門院璋子との邂逅、仕える堀川、兵衛ら女官との逸話、
宮廷での和歌生活、出家、小倉・嵯峨の草庵生活、

そして、
25歳、奥州への最初の旅、
30歳、高野山・大峰山での修業、

さらに、
重源(ちょうげん)と東大寺大仏殿再建、
40年ぶり、再びの奥州の旅と鎌倉殿との対面、
伊勢への奉納歌と俊成・定家、
慈円(もと道快)との邂逅、
を経て、
建久元(1190)年、73歳、河内の葛城山中、弘川寺での最期まで、

・・まことに長大な物語です。しかし、読み始めると頁を置くのが惜しくなります。名著と言えるでしょう。
 最後に、コロナ禍で、家居が続くので、西行の歌で、終えます。

 「事と無く今日暮れぬめり明日もまた変わらずこそは隙(ひま)すぐる影」★
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Re: よろしくお願いいたします。

 これからもお邪魔いたします。よろしくお願いいたします。

ご訪問ありがとうございます

ずいぶん前ですが「西行花伝」西行好きの夫の誕生日プレゼントに贈りました。
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感動人

Author:感動人
 芸術全般を愛する団塊世代です。
 「引退後」、たっぷり時間をかけて、いろいろな芸術を初心にかえって学び、横断的に、楽しんでいきたいと思います。もうひとつ、心身共に健康に「年をとっていく」ための、生活のマネジメントも「同時進行」でお伝えします。
 のんびりと過ごしたいと考えています。お寄せいただくコメントなども、論争などは避けて、ゆったりしたお話をお寄せください。

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