FC2ブログ

藤木久志 『中世民衆の世界 ー村の生活と掟 』 ~逃散(ちょうさん)の自由や、自由に泊まれる惣堂の話、領主から村民への過大な饗応の例、戦の手当額など、あらためて、中世の村の暮らしと掟を知ることが出来ました。

 ウィルス喧噪の世上、気取って言えば、歌人西行の思う「浮島」を包む花ならぬ、書物の香りに囲まれての毎日の遁世です。
 なお、西行につては、近くお話しします。
 毎日、機器を使った有酸素運動と筋トレ(二日毎、スクワット60回)をしつつ、もう2週間は家で自粛・・私は、自己防衛と言っていますが・・しています。
 そのせいもあってか、今年は、花粉症が少しも出ませんでした。

 年相応に、軽い持病があって、2か月ごとに通院して薬を貰っています。
 先日は、薬剤師さんに〈入れ知恵〉してもらって、医者に行かず、電話で、全て薬局払いで薬を頂きました。
 はっきりと、「今、医者に行きたくないんです。」と言ったら、医院の看護婦さんは、ややムッと、反対に、薬剤師さんは、「家まで届けますよ」と親切でした。

 さて、本論です。

 このところ、日本の中世に関する読書が続いていますが、今日は、その時代、庶民はどうなっていたかを知りたくなりました。
 そこで、読んだのは、

藤木久志 『中世民衆の世界 ー村の生活と掟 』(岩波新書)

です。

20200413153546820.jpg 

 当時の引用文書が、平易な現代文に訳して書かれているので、極めて読みやすい書物です。

 話が前後しますが、はじめに、能「鵜飼(うかい)」の話です。
 安房から石和に着いた旅僧(ワキ)が、里の男(アイ)と問答します。
 その問答は、「鵺(ぬえ)」のワキとアイの問答と同じですが、要するに、「往来の人に、宿を貸すことは禁制」だが、「川崎(川に突き出たところ)のみ堂」、「惣堂(そうどう)に」お泊まりなさい、という会話です(「日本古典文学大系」(岩波書店。174頁、304頁)。

 ここで「み堂」「惣堂」について、同書の頭注では「協同で建てた堂。惣は、中世の村落の自治組織の名」とあります。

 ここからが本題です。
 よく時代劇で、旅人が、小さなお堂に入って一泊したり、そこに子連れの女がいたりしますが、素朴な疑問は、勝手に入って泊まっていいの ?
 いいんです。よそ者を厳に警戒する村でも、村(ざいしょ)の共有する「惣堂」(草堂)は、自由に泊まれました。
 しかも、旅人たちは、かなり自由に「落書」を沢山残しました。落書きと言えない長文もあります。
 その落書きを見ると、旅人・・それも全国にわったっています・・ばかりでは無く、戦国のあるいは主家を追われた牢人の長期滞在もあります。

 勿論、惣堂は、旅人たちだけの用途では無く、重要な仏事の場であり、村の寄り合い、夜なべの藁仕事を持ち寄ってしたり(夜鷹坊)、あるいは、一揆の拠点ともなりました。したがって、村の咎を追求され、惣堂が焼かれることもありました。
・・ということが第2章に書いてあり、改めて刮目します。
 たまたま第2章から始めたのですが、著者も、本書で、この惣堂について、重要な位置づけをしていると解して良いでしょう。

 話が第2章から入ってしまいましたが、第1章からは・・、

(以下、下記の「続きを読む」をワン・クリックしてお読みください。)


 ちょうど先日書いた「定家」などにある、定家晩年の頃は、大雨・大洪水など天下多損による全国的な大飢饉の頃でした。
 注目出来るのは、鎌倉幕府の「御成敗式目(貞永式目)」では、農民が、村を去る(「逃散(ちょうさん)」自由や、裕福な者に身を売って下人(奴隷)となることを認めていることです。
 これは、基本的には、江戸時代まで続いています。

 「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出る」(18世紀末に本多利明が伝えた、神尾春央「西域物語」(1798)の言葉)とは言いながら、百姓株(名跡)や田畑、村の自立は、厚く保護されていました。
 このあたり、領主がほとんど口を出さないのは、予想外でした。

 例えば、百姓が、村を捨てても(「潰れ百姓」や「欠落(かけおち)」)、追放・処刑しても(村に「自検断(じけんだん)」(地下請ーじげうけー)という警察・裁判権がありました。)、田畠は、村として耕作・維持管理を続け(「惣作(そうつくり)」)、本人が帰ったり、追放を解除したり(「召し直し」・「還住(げんじゅう)」・「召し返し」)すると戻したり、成人後の相続人・親類・好身の者に戻したりして、分散させないようにしています。
 気付かれているように、村の自治権も、考えられているよりも、強いものがあります。

 村の生活が詳細に書かれていますが、気付くのは、上下関係も含めて、結構、「タメ」であったこと。
 「タメ」とは、今でも、「タメぐち」(対等なもの言い)と言いますが、そのタメです。
  例えば、税の厳しさよりも、領主にとっても過大な、折々に出す数々の饗応、祝儀の多さと面倒くささ。それは、あるとき領主が村を売ろうとして、買う側が、その数々の持ち出しと面倒くささに(多分)辟易して、取り消してしまった話からも伺えます。

 例えば、北国越前の江良浦(福井県敦賀市)の漁村(塩田が主)の「百姓の指出(さしだし)」という、領主が変わった時の、いわば、先例報告書の例では・・、

 税は、塩年貢を3~8月に納め、6月には、桑年貢、年貢米(ここでは麦)を納めますが、40%は、村に控除され(村人や樵ーきこりーの取り分)を納めます。
 なお、麦不作の時は、麦1升を米5合換算した現金で納めるきまりです。

 一方、領主は、麻播きの酒手(春畠の勧農のため)、入草の酒手(春田の勧農のため)、さらに、11,12月、正月、祭りの祝儀を可成り(年貢の10~15%程度)出す、といったことがあり、このことが、本書で延々と書かれています。

 江良浦では、領主が地元に住んでいたので、特に手厚く、これが、領主が遠く、例えば京に住んでいて、地元に代官を置いていたときは(もう一つの、若狭矢代浦の例)、少し淡泊なようですが。

 なお、普請や戦への動員も、「自堪忍」(手弁当)ではありませんでした。

 若狭太良庄(福井県小浜市)の例では、国内での人足給(代飯ーだいはー)は3石、陣戦夫では9貫文、国越し(若狭外)の夫では300文が年貢から控除されていました。
 あるいは、別の例では、公事用務は、一日1升5合、陣夫は一日8合の飯を食わせるとあります。

 山野河海は、みなのもの「公私共利」ですが、村の間に争い(山論ーやまろんー)がある場合・・かなり深刻で、武力衝突もありました・・の「和与」の方法を読むと、領主が係わること無く、ほとんど村同士、あるいはそこに、近隣の村の「異見(意見)」を入れた「和与(和解)」によること、
 地頭(私領の領主)や代官(大名領の役人)の無法には、直訴(戦国の越訴ーおっそー)が認められ、これによって一揆を防ごうとしていたこと、
 ・・など、村の自治が相当程度認められていたことを、本書で、きちんと知ることが出来て有益でした。

 なお、前記「山論」で述べられるのですが、農具の「(かま)」は、呪具の一つで、専有・占有の標識でもある、という知識が述べられます。

 余談ですが、今度書きますが、歌人・西行の、紀ノ国所領・佐藤家の田仲荘も、紀ノ川を挟んだ高野山領と激しく争っていた例があります。

 最初に述べたように、極めて読みやすいのですが、文中に一々、引用資料を明記しているのは、読んでいて煩わしく、学術書ではありませんから、やめて、文末にでも一括表記してほしかった。★ 
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

Re: 実は、私も。

 実は、私も、書棚の奥にあったのを、読んだような、読まないような、どうも表紙を開くのが固いので読んでいないかも、と、コロナ在宅を機に始めた読書終活で読み始めたのです。

タイトルを見て、あ、面白そうな本、と思い、
内容を拝見して、???これ、なんだか読んだことあるなあ
と思って本棚見たらありました。
危うくアマゾンでポチしてしまう所でした。

読み返してみます。
プロフィール

感動人

Author:感動人
 芸術全般を愛する団塊世代です。
 「引退後」、たっぷり時間をかけて、いろいろな芸術を初心にかえって学び、横断的に、楽しんでいきたいと思います。もうひとつ、心身共に健康に「年をとっていく」ための、生活のマネジメントも「同時進行」でお伝えします。
 のんびりと過ごしたいと考えています。お寄せいただくコメントなども、論争などは避けて、ゆったりしたお話をお寄せください。

最新記事
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

記事のカテゴリ
読みたいテーマを選択してください。
リンク
RSSリンクの表示