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堀田善衛 『定家明月記私抄 続編』 ~ 言葉と〈景気〉についての定家と後鳥羽上皇の考え、対立を通して和歌の本質が見えてきました。新古今集を読む意欲の一歩が進みました。

 先日に引き続いて、続編、

堀田善衛 『定家明月記私抄 続編』(新潮社)

を読みました。

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 本書で、最も感銘を受けたのは2つ。
 1つは、定家の何気ない単純な一句を、後鳥羽院が、多分、7年前の出来事を批難されたと誤読して、立腹し、定家を閉門したおりに展開した、院の歌論『後鳥羽院御口伝』を通した、和歌の重要なあり方です。(なお、その歌の内容などは、7年前の出来事のところで、記述します。)

 和歌が、孤独な(自由な)個人の歌では無くて、人が和する歌として可能になるためには、〈言葉〉を補う、人々が和することの出来る〈景気〉(一定の景色、気配、詩的雰囲気、活気、活況)が必要で、また、そこに最小限〈ことわり〉(筋道、道理、詩的論理)が無くては、他人が和して別の歌を詠めない、ということです(111~130頁)。
 例えば、〈あわれ〉という〈叙心〉の表現を拡大するには、〈叙景〉での暗号化が必要です。暗号化ですから、誤読の可能性も生じます。
 これらのことを知ると、なおさら、「新古今和歌集」を読んで行く意欲が湧いてきました。

 もう1つは、和歌、また、それ以外の日本文化は、庶民から上がって来て、貴族などで清廉され、「家」の文化となり、しかし、それゆえ、後代、枠のなかで固まって行ったことと、さらに、後述する室町の騒乱で、それが、また、庶民に戻って新たな発展形態となって行った、巨視的な流れに気付きました。

 さて、本論に入ります。

(以下、下記の「続きを読む」をワン・クリックしてお読みください。)



 続編は、1211(建歴元)年、定家50歳にして、ようやく侍従・従三位になった時からはじまります。

 これ以降、定家は、翌年・参議、その翌年・伊予権守、その翌年1月・治部卿(治部省長官)、12月・正三位、建保6年・民部卿、ととんとん拍子に出世しますが、実は、陰で、姉の九条尼(健御前)が、弟のために、自分の荘園を売るなど惨憺たる苦労をしていました。

 因みに、〈治部省〉は、家々の姓氏を正し、五位以上の家の継嗣・婚姻・葬祭や、天皇の諱(いみな)、外国使臣の接待を掌り、
民部省〉は、人民を管轄して、戸籍、租税、賦役を掌ります。
 参議の時は、いわゆる公印の管理を掌った〈請印政(しょういんのせい)〉という重用職にいたことが「吾妻鏡」に書かれています。

 建歴元年から、1213年建保元年にかけて、2つ特筆しておくことがあります。

 1つは、定家の後鳥羽院に対する考え方が、変わって行ったこと。

 後鳥羽院の命令で、よりによって、検非違使(今の警察)の別当(長官。因みに、唐名では、太理と言い、原文は、こちらを遣っていることもあって、文章がわかりにくい)が、定家の家の柳の木二本を掘り返して持って行って、後鳥羽院の御所の高陽院(かやのいん)に植えたり、(これが、7年後に、誤解の歌の元となる出来事です。)

 院が、定家の、16歳の息子・為家や、30歳になる光家を頻繁に蹴鞠の遊びに連れ出して、家業、御子左(みこひだり)の歌の学びに影響したことに怒り、日記で、すこぶる罵って、挙げ句は、新年号「建保」を「献宝(けんぽう)」とまで皮肉って、さらに、後鳥羽院は神剣無しで即位した天皇(安徳天皇が、平家と海に沈んだときに宝剣は共に沈んだ。その後、後鳥羽院は、伊勢の宝刀を利用しましたが、ずっと宝刀の無いことがコンプレックスにありました。)だから、とまで怖い反逆的な表現をしています。
 また、一方で、このあたりから、20歳過ぎの順徳天皇への歌の指導に力が籠もって来ているように感じられます。

 余談ながら、それらの文に遣われている「幸(さち)トナス」は、幸福の意味では無く、反対の、嫌なことを意味します。
これは、以前も書きましたが、病気を「歓楽」と書いたのと同じで、なかなか難しいものです。

 因みに、本ブログ冒頭の和歌の本質を述べた時に述べた、先述の「松」の出来事で、7年後に誤解された歌が・・、
道のべの野原の柳したもえぬあはれ嘆きの煙くらべに
です。
〈下萌え〉は、地中から芽が出てくること、
〈煙比べ〉は、燃えるような思いの強さを比較して、
〈道のほとりの野原の柳は下萌えした、ああ、あたかも私の胸中の嘆きと競い合うように〉、
・・という何ということの無い歌です。

 2つめは、「天下ノ悪事、間断ナシ」の世相です。
国家宗教、特に、延暦寺堂衆の乱暴狼藉、暴力団化や、昼は公家の武士が、夜は群盗と化ししている治安の悪さです。
 「京名物は、火事」とまで言われた放火も横行しています。

 建保2年から承久元年の、53歳から58歳、承久2年から貞応元年2年、元仁元年に至る59歳から63歳と、ほとんど日記が書かれていません。
 歌も、この頃、万葉集を読み返して平明な歌を詠んでいますが精彩を欠いています。

 また、建保3年あたりで、息子光家の歌の才能を諦めたようです。
しかし、建保5年に、息子為家が中将になり、翌年、昇殿を許されて、また、一時の蹴鞠熱も収まって、定家が期待しています。
 やがて、為家は、鎌倉系で、「百人一首」成立に関係する、宇都宮頼綱(妻は、北条時政の娘)の娘と結婚します。

 建保4年には、自選歌集「拾遺愚草」が一応完成しています。〈拾遺〉とは、侍従の唐名です。

 少し戻って、この世の中で、公家世界でひとつ注目したいのは、肉親・兄弟が不祥事を起こしても、その一家全員が責任を問われないという、個人主義です。勿論、武士の世界では、一家眷属(けんぞく)総ざらいで責任をとわれていますが。

 強いて言うと、もう一つ、歯の治療で、「老婆ヲ喚び、歯ヲ取ラシム」話が、始めて知った話でした。

 やがて、鎌倉では、執権北条義時を中心とした、血を洗うが如きが一段と進んだ時代となり、実朝・・成長するに従って現実が見えなくなって行った青年として、著者の評価は、極めて低い・・暗殺、なども生じますが、「日記」は、これと言った記載はなく、淡々とした職務が記されます。

 淡々・・、と言えば、1221(承久3)年5月、60歳の日記は、《承久の変》最中でありながら、また、「柳」の歌で後鳥羽院(この年42歳)の勘気にふれて蟄居中とは言いながら・・、

「微臣ノ如キ者、紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ、独り私廬ニ臥ス・・」、

と言う状況で、歌集の整理に余念がありません。
(〈紅旗〉とは、朝廷の儀式用の鳳凰や龍の図を描いた旗指物で、〈〉とは、蛮人・異民族を指します。なお、一説(辻彦三郎説)によると、この文章は、定家70歳の時に加筆されたとも言われます。)

 この頃から、和歌学が、「家学」になってきて、和歌芸の完成というよりは、固定化、形式化して来たのは、和歌ばかりでは無く、やがて、生花も茶も能も、家学家道として、家元制度的になって来て、能力の有無に係わらず子孫が跡を継ぐようになってきました。

 承久の変で、後鳥羽院は、隠岐国あまの郡苅田の里に流され、19年後、1239(延応元)年に、60歳で死没することになります。
 25歳の順徳上皇は、佐渡に流され、責任を感じた土御門上皇も申し出て土佐に流され(後、阿波の国に移転)に流され、多くの公家たちが殺されたり自死したりし、3千箇所以上の所領が没収され、日本文化全体が大きな転換点を迎え、今一度、庶民から再生しなければならなくなりました。
 後鳥羽院の勘気に触れていた定家の閉門は、うやむやになっています。

 1227(安貞元)年、66歳。定家は、民部卿を辞して、正二位に叙せられました。
九条家も元のように盛りたち、息子為家も順調に出世しています。
 世の中は、相変わらず群盗の群れが跋扈する治安の悪い都で、街には死体も放置されています。治安維持には、検非違使よりも、鎌倉系の六波羅探題の権威が大きくなっていますが変化ありません。
(ただ、この頃の、深刻な大飢饉については、あまり触れられていません。)

 定家は、病に悩まされ、歯熱の治療に30匹の蛭に歯の血を吸わせたとか、30本もの灸をすえたとか、便所に行く途中失神してしまったとか、驚くべき記載もあります。視力も弱っています。
 まさに、「骨髄搾(しぼ)るが如く」です。

 1232(貞永元)年4月には、権中納言に任じられますが、もうさしたる感動は無く、12月に辞しています。
この年、「新勅撰和歌集」を編纂しましたが、命じた後堀川天皇は、2歳の秀仁親王に皇位を譲っています(四条天皇)。
 治国天下太平を目指して、鎌倉で、北条泰時により、御成敗式目五十一カ条が制定されました(因みに、この31条で、姦通が罪科であるとされ、「色好み文化」に終止符がうたれました)。

 もう一つ、貞永元年は、大飢饉で、改元されました。余談ながら、今読み始めた、

藤木久志 『中世民衆の世界』(岩波新書)

は、この飢饉から書かれています。

 1233(天福元)年、72歳の定家は、出家(法名明静ーみょうじゃくー)します。
1235(嘉禎元)年74歳で、定家は、義父蓮生(宇都宮頼綱)の別荘に通いますが、ここで、障子に張る色紙形状和歌の選定を依頼されますが、これが、小倉百人一首の第1次的な成立のきっかけとなります。
 この年、74歳で、現存する明月記は終わります。

 後鳥羽上皇が、1239(延応元)年に、60歳で没します。
 定家が、没したのは、1241(仁治2)年8月20日、80歳でした。

 読んでいて、最晩年の、多くの老いの表現が、心にしみます・・、

「葉を落としつくした裸の寒林に没して行く。人生また斯くの如きか」、
「南縁の月を見、残涯(ざんがい)を悲しむ」、
「・・老愁に沈む」、
「七旬(しちじゅん)の余算何日ぞや」
「又夢の如くに過ぎ」・・、

 第1巻よりも多い、311頁。感動の内に頁を閉じました。★
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Author:感動人
 芸術全般を愛する団塊世代です。
 「引退後」、たっぷり時間をかけて、いろいろな芸術を初心にかえって学び、横断的に、楽しんでいきたいと思います。もうひとつ、心身共に健康に「年をとっていく」ための、生活のマネジメントも「同時進行」でお伝えします。
 のんびりと過ごしたいと考えています。お寄せいただくコメントなども、論争などは避けて、ゆったりしたお話をお寄せください。

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