FC2ブログ

本郷恵子 『将軍権力の発見』 ~もし、公家政権が滅びていたら、という問題意識を底流に、鎌倉・室町時代の政権構造と、その中の公文書、宗教の係わり、さらには当時の「改名」の実情まで詳しく語られた有益な書でした。

 さて、老愁の残涯、頑張って行きたいと思います。

 今日の書物、

本郷恵子 『将軍権力の発見』(講談社選書メチエ)

は、鎌倉武士政権から室町時代にわたる、公武の権力のありかたや、その中で律宗、禅宗などが果たした大きな役割が理解できます。

202003292220027cd.jpg 

 公武の組織と対立、それぞれの「文書」の作製と流れ、「有職故実」についての詳細な説明がすこぶる有益です。
 天皇を中心とした公家と武家政権のあり方については、「もし、公家政権がなかったら」、という問いかけが、斬新で意義が深いところです。

 本書の第三章は、著者専門の、当時の公文書形式について熱のこもった説明が延々と(?)あり、著者の専門分野への洞察と問題意識に圧倒されて、しばし、読むのが足踏みしてしまいました。
 しかし、これも、やはり、きちんと読んで頭に入れておけば、歴史書・歴史小説を読んでいて、判然と理解が進みます。我慢して、通読すべきところです。私は、この部分は再読しました。
 「選書」とは言え、本書の学問的水準は、相当なものだと思います。

 それに例えば、当時の、「」(いみな)の変更について書かれているが面白い。
 例えば、先日、私は、定家の「明月記」を読んでいて、右大臣九条兼実の息子で「良経」がいましたが、「よしつね」とは、「義経」と同じ読み方だなあ・・と思ったのですが、本書に書かれているように、やはり、ご当人も気になったらしく、改名を考えたようです。
 しかし、結局、自分は改名せずに、義経のほうを「義行」「義顕」として追討宣旨を出した(198頁)とか。
 さらには、豊臣秀吉の5回の改名経過まで、詳しく書かれています。

(以下、下記の「続きを読む」をワン・クリックしてお読みください。)

 また、先ほどの、「九条」という名ですが、当時、藤原氏が多いので、居住地を通称で呼んだとか、
」(かばね。朝臣などを本姓に続けて付く称を言います。)の話とか・・、
こういう話も多くて、本当にタメになります。

 さて、鎌倉時代の政策の特色は、その場、その時の《当事者主義》です。
 つまり、何事も案件は、当事者の働きかけ如何で動き、解決され、権力はあまり係わりません。余計なことは言わない、余計な仕事はしない、主義です。
 例えば、殺人でさえ、訴えがなければ、検断されません。
 しかも、その当事者は、一元的に定められているのでは無くて、朝廷・幕府・上皇(治天の君)・天皇・寺社・荘園領主・地頭など多元的です。

 では、社会政策的なものは、どう補われたのか。
 そこを代えて公共事業や社会事業を行ったのは、鎌倉幕府においては律宗、室町幕府においては禅宗でした。
 したがって、本書では、寺院の形態、発展も本書で詳しく述べられます。
 本書を読んでから、先日の「日本の庭」を読めば、もっと読み方が違っていたかもしれません。

 ところで、公武関係には、多く文書が用いられ、やり取りしました。
その場合、例えば、公武の間には《関東申次(かんとうもうしつぎ)》が入りましたが、まずは、主の意向を受けた侍臣・家司(けいし。家政機関の職員)による《奉書》に、《副書》が添えられ、東司(とうし)が京に持参すると言った具合です。
 文書を、本人自身が書く《直状(じきじょう)》の場合は、《書札礼(しょさつれい)》に基づく厳格さが求められました。

 因みに、天皇の意向(綸旨(りんし)。上皇の時は院旨)は、秘書役である蔵人(上皇の時は院可)が承り、その事案を担当する大納言(上卿(しょうけい))に伝え、さらに、事務方である左中弁・左大史で作製し、「」(上から下への文書)つまり、「官宣旨(かんせんじ)」として発せられます。これには印が無く簡略化された文書です。
 ここの実情が、本書では、多くの例で語られます。

 文書に、押印があるのは、「太政官符」で、印を押すのは、事務部門の少納言で、印を取り扱う(外記(がいき))の請印政(しょういんのせい)を通さねばなりません。
 余談ながら、「吾妻鏡」に、「参議定家卿・・請印ヲ行ハル」とあります。定家が、この役を1214(建保2)年頃、53歳の時に就いていたことがわかります。
 なお、一番簡略な、弁官局を通さない、天皇ー蔵人間のみで発する文書は「論旨」と言います。

 参考に、「令外の官」での組織を述べておきますと、太政官のうち、
大臣、大・中納言は議定官(政策を掌る)、
少納言、左右弁官局は事務部門で、
その配下に、八省(大蔵・宮内省・治部・兵部・刑部・中部・式部・民部)と
警察役割の検非違使があります。

 権力の所在は、この時代、天皇には上皇が、頼朝以降の鎌倉将軍には執権がいて、それぞれ実権を握っていました。

 室町幕府は、当初、足利尊氏と弟、直義の〈二頭制〉。
前者が、御家人を統率し、後者が、社会安定を仕組みました。
 ところで、本書の冒頭にありますが、幕府政権が、最初に悩んだのは、幕府を京か、鎌倉に置くのかでした。大勢に反して、幕府を京に置く進言をしたのは、高師直(こうのもろなう)です。

 吉野で死した後醍醐天皇の霊と敵味方戦死者を慰めるために、《成功》(じょうごう。官位を売ること)を利用して、天龍寺(霊亀山天龍寺)が建てられ、また、鎌倉幕府滅亡以来の敵味方の戦死者を弔うため、全国に、安国寺(五山派寺院とした)と利生塔(りしょうとう)を造営し、幕府支配を広く知らしめました。

 そして、この何れも、夢窓疎石が係わり、尊氏・直義が足並みを揃え、また、光厳上皇も院宣を出しました。
 夢窓疎石の登場は、京、鎌倉の寺院のあり方に大きな影響を与えます。
(これも、本書を読んで後に、「日本の庭」を読むと役立ちます。)

 既述のように、中世、鎌倉・室町時代の政権は、政権がカバーする範囲は狭く、代えて公共事業や社会事業は、鎌倉幕府においては律宗、室町幕府においては禅宗でした。
 そこで、政僧・夢窓疎石は、室町幕府で、尊氏・直義兄弟に伴走して大きな影響力を及ぼしました。
 それは、禅宗の五山十刹(京・鎌倉の五山、全国にわたる十刹)、その下の全国の諸山の成立に至ることになりました。

 禅宗の中でも、大覚派(蘭渓道隆門下)、仏光派(無学祖元)などの臨済宗(大応派は除く。)と曹洞宗宏智(わんし)派は、全国に展開し、内部組織も整え、五山派と言われました。

 それは、
第一の建長寺、南禅寺、
第二の円覚寺、天龍寺、
第三の寿福寺、
第四の建仁寺、
第五の東福寺、
準じる浄智寺
・・ということで、1342年、直義の時代に決定され、特に、後醍醐天皇の菩提を弔うために1339年に建立された天龍寺は、夢窓疎石門派の拠点ともなりました。
 その後、1358年に義詮によって、第五に浄智寺(準から移動)、浄妙寺、万寿寺が加えられ、
 さらに、義満が、1382年相国(しょうこく)寺を建立して、これを第二にし、天龍寺を第一に、南禅寺を五山之上、としました。

 十刹は、1342年に鎌倉・浄妙寺が第一で、京、鎌倉の他、筑前、上野、豊後にわたりました。
これも、1379年以降、足利氏家刹の等持寺が第一となったり、準十刹で6寺が追加され、やがて、1492年には46寺になっていて、さらに増えています。
 諸山は、数の制限も無く、謝礼金が財源となったこともあって、江戸初期には230に及んだと言われます。

 ・・京、鎌倉散歩に、この書物を読んでいれば、見る景色が全く違ったものになるでしょう。有益かつ面白い書物でした。お薦めします。★
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

感動人

Author:感動人
 芸術全般を愛する団塊世代です。
 「引退後」、たっぷり時間をかけて、いろいろな芸術を初心にかえって学び、横断的に、楽しんでいきたいと思います。もうひとつ、心身共に健康に「年をとっていく」ための、生活のマネジメントも「同時進行」でお伝えします。
 のんびりと過ごしたいと考えています。お寄せいただくコメントなども、論争などは避けて、ゆったりしたお話をお寄せください。

最新記事
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

記事のカテゴリ
読みたいテーマを選択してください。
リンク
RSSリンクの表示