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堀田善衛 『定家明月記私抄』(新潮社) ~まるで、週刊誌を読むよう。60年間の、鬱屈に満ちた魂が、時代の詳細な記録と共に描かれていて、その〈人間味〉にひかれてしまいます。

 余談から。「外出自粛」で思い出しましたが、50年ほど前、大学紛争で、大学が封鎖されたとき、たしか、1年以上家にいた記憶があります。あの時、新潮文庫の日本純文学、カミユ、カフカ、ヘミングウエイ等々を片っ端から、随分読んだ覚えがあります。その頃から、家にいるのが平気だったのです。

 中世史の本を何冊も読むよりもこの時代がよく分かる、と思ったのが、今日の本を読んでの一番の印象です。
 かなり前に古書店で買い(500円)求め、積んであった、

堀田善衛 『定家明月記私抄』(新潮社)

を読みました。続編も買ってあります。

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 例によって、座右に「日本史年表」、年表とその中の皇室、藤原氏、さらには、北条氏、清和源氏の系図を置いて、参照しつつ読み進めました。
「新古今和歌集 上下」(新潮日本古典文学集成)も引っ張り出して来ました。

 本書は、箱入りの、布張り上製本で、1988年7月10日刊行・第15刷(1986年2月20日初版刊行)1500円とあります。作者・堀田善衛は、1918(大正)年 - 1998(平成10)年、の作家です。

 藤原定家は、1162(応保2)年ー1241(仁治2)年の歌人。
 当時、和歌の原意は、和する歌、答える歌で、常に、応答、交換を期した会話、対話、また、この世に対する挨拶で、時には政治的応用が入りました。

 本書は、語りかけるように、人間味豊かな定家像と生きた暗黒時代を詳述し、今まで読んだ、どんな中世史よりも、この時代が良く理解できました。

 余談ですが、今、別途、本郷恵子著の『将軍権力の発見』(以下「前掲書」と略します。)という書物を平行して読んでいます。
 そこに、定家の時代、いかに「有職故実」を記録して蓄えることが大切か、が出て来ます。「有職故実」とは、儀礼の場での作法や立ち居振る舞い、文書をやり取りする場合の書式や語法(書札礼)です。
(なお、その公家の有職故実は、武家故実になり、やがて、民間習俗の形成に影響していますから疎かにできません。)

 「明月記」原文は、この有職故実の記録に満ちていて、我々が今書く「日記」とは性質が違います。
 しかし、本書は、その有職故実の部分よりも、定家の日常生活を取捨して書かれているので、取っ付きやすく、面白いくなっているのが最大の特長です。

 定家の生涯は・・、主家の九条家・・この名も、前掲書に説明されていますが、「藤原」家では、あまりに多いので、住所を通称にしたものです・・の運命に翻弄されつつ、
気位い高く、宴会嫌いで、
職業歌人〉(あるいは、宮廷芸人)として、
今日の勤め人の様に、遊び人の上司(上皇)に気を遣い、ご機嫌をとり、
官職での出世願望(40歳になっても、自分の子ども達のような同僚ばかりの少将・・定家が、この少将になったのは、28歳の時でした)から、中将以上を望みます。

 左近衛権中将になったのは、47歳、1202年10月24日でした。その中将も、政策を論じる役職の参議中納言を目指している若者ばかりでした。
 定家は、天皇の秘書役とも言える蔵人頭を狙いましたが適いませんでした。
昇進運動をし、姉も側面支援しますが、同僚には足を引っ張られ、
一方、生活苦や27人の子どもの面倒をみての貧窮、
治安最悪の世の中に、喘息や腰痛、腎臓結石、神経痛に悩まされまがら歌の家業に専念した、
・・一生でした。
 それらが見事な筆力で書かれています。本書を買ってから、和歌に不調法なので手を出さずに積読であったのを反省しています。

 素晴らしい本です。
 本書続編も読むのが楽しみですし、さらには、古典文学全集で新古今和歌集をもっと読みたいし、同時代の、慈円(「愚管抄」)、西行、鴨長明(「方丈記」)についても、きちんと、精読したくなりました。

 本書は・・、

 まずは、定家19歳の時、源氏追討の軍事行動のある、社会不安溢れた(群盗の群れがはびこり、流行歌に、「尼も長刀(なぎなた)をもつ」ほどの乱れた)世上に・・

「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖(イエド)モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎(コウキセイジュウ)吾ガ事ニ非ラズ

・・との達観、

「雲さえて峯の初雪ふりぬれば有明のほかに月ぞ残れる」
という驚嘆感動から始まります。

(以下、下記の「続きを読む」をワン・クリックしてお読みください。)

 日記自体の始まりは、1180(治承4)年2月、19歳から始まります

 日記の「明月」の由来は、直接には明らかではありませんが、歌の中に、頻繁に「明月」が登場します。例えば、「明月片雲無シ」(治承4年2月14日)、「明月蒼然」(9月15日)、「只明月ヲ臨ム」(7月15日)・・など。
 この時代の日記は、個人の儀式事典として秘伝の意味もありました。したがって、治承4,5年記は、70歳頃に清書しなおされたという説もあります(辻彦三郎等研究)。
 因みに、定家19歳の時、鴨長明(「方丈記」)は、26歳でした。

 48歳(1209・承元3年)から50歳前半までと、57歳(1218年・健保6年)から63歳(1224・元仁1年)など、一部欠けている部分も多い(特に、2,30歳代)が、60年間(実質56年間)の、鬱屈に満ちた魂が机に向かって、「云々・・」(いろいろあった)などと記す、そのお屋敷廻りやご機嫌伺い、儀式・法会・加持祈祷への参加など、日に平均数十人との付き合いのある、その延々とした退屈とも言える、しかし、服装の種類や色模様、乗り物なども詳細に(飽きもせず ! )書いた日記ではあります。

 その中で、当時の衣服衣装・衣紋の色彩豊かさ、華麗な色付けが、当時の、「群婚的多妻多夫」(高群逸枝説)とも言うべきアナーキーな「色好み」(それは、時代の〈遊戯〉でもありました。)、子どもの多産さ(定家の父俊成は、27人子どもがおり、定家自身も27人いました。)の世上と共に際立ちます。

 例えば、父俊成の妻、39歳の時に、定家を生んだ10歳ほど歳下の妻・加賀(後、五条局)は、藤原為隆の妻だった人ですが、前妻は、為中女という、為隆の姉妹で、すでに4人の子がいました。為忠女がいるのに、顕良女という妻もいて、関係が続いていたようで、このほかにも、妻妾が数人いた模様です。

 ところで、この時代は、女性に相続権がありました。
それにより、経済的独立と恋愛で男達を通わせる形態となり、女流文学の一大形成の元ともなっています。

 さて、本書では、通常の歴史書には省かれている、例えば、1202(健仁2)年3月(41歳)24日から26日の、23歳の後鳥羽上皇の狂ったような日々の遊び・・競馬・鶏合・賭弓・相撲・蹴鞠・囲碁・賭博・双六・今様・60人の遊女や白拍子・東遊び・・に付き合い、ついには、途中「逐電」、そこから逃げた「老掘耐えがたい」気持ちや、上皇が、遊びで、猪をつかまえ、神聖な神泉苑で猪が蛇を食っているありさまを非難して、時に、「胡地」(野蛮未開の地)と、悪口を書いたりもしています。
 上皇は、23年間で御所離宮の造営も18度に及びましたし、往復20日かかる、南山(熊野)御幸も31回ありました。途中、10か所位の神社に寄り、今様、白拍子などを交えた行事があります。1度は、人間関係が出来ると喜んだ定家は、もうこりごりで参加しなくなります。
 一方、長男清家(後の光家)の出来の悪さに愚痴がこぼれたりします。

 その後鳥羽上皇ですが、1200年(正治2年)頃から、俄に和歌に熱中し出し、歌論書も書き、あわせて別邸と庭園の建造など、ルネサンス的な幅も出します。
 それは、和歌所の設置、新古今和歌集の撰進を命ずることにもなります。

 因みに、公卿の、「」とは、太政大臣・左右の大臣をいい、「」とは、大中納言・参議・三位以上を言い、政策決定に参加出来ます。
 定家は、九条家の家司(けいし)として、兼実に臣従し、庇護を受け、兼実の嗣子・良経に仕え、1211年、50歳で、従三位侍従となり、その3年後に、ようやく参議になりました(これは、続編冒頭で語られます。)。
 1196年に後鳥羽側近に対する〈クーデター〉で、兼実、慈円が〈失脚〉して、九条家が衰退してしていました。
 遅い出世もあってか、所謂、《二流貴族・職業歌人》と位置づけられています。

 職業歌人定家は、鴨長明などと共に和歌所の寄人(よりうど)ですが、歌会での陪席、陪膳(給仕)のこともあり、自ら参加する集まりは、時に二か月に2度ほどのこともある随時開催で、常に心づもりが必要で、開かれるのは、時には急で夜間もあり(夜間は、老眼でよく見えません。)、時には寒い雪の日、時には梅雨で川をびしょ濡れで船で行き、また、子どもが病で伏せっていて、気が気でない時も、後鳥羽院の後を追ってはせ参じなければなりませんでした。

 しかも、職業歌人ならば、歌合わせは、真剣勝負です。
 最愛の5歳になる三名(みな。後、為家)が熱病かマラリアで発熱していた折の歌に、
「行く蛍なれもやみにはもえまさる子ヲ思ふ涙あはれしるきゃは」
は、全く自然の情から出た歌と解せられます。
 まさに、「身体疲レ痛ム」「辛苦極マリ無シ」(その割には、多くの子をつくっていますが !)の心境です。

 1181年(治承5年)1月14日に高倉上皇が崩御しましたが、定家は、3日に、10歳ほど歳上の式子内親王(30歳位。後白河天皇の第3女、高倉上皇の姉で、前斎院、賀茂社に天皇の名代として奉仕する未婚の内親王)に初対面しています。
 式子内親王とは、1201年(建仁元年)1月25日に同女が亡くなるまで、約20年間交流がありました。亡くなる前年などは、36回ほども、定家が訪ねて行き、「夜半許リニ退出ス」ることもあり、謡曲定家が出来るほどの〈式子内親王定家伝説〉が生まれました。

 なお、この治承5年(7月14日に養和に改元)は、《養和の大飢饉》で4万2千人以上が死に京の街にも屍が見られましたが、その4月に定家は、「初学百首」を詠んで、成功しています。因みに、翌年の、「堀川百首」は、題詠が気に入らずか不出来で、自家集「拾遺愚草」には、入れていません。

 また、定家は、1183(寿永2)年の頃、22歳の時、父の歌の弟子である、15歳位の六条季能の娘と結婚しています。季能は、六条顕季の四代目の孫で、歌道の敵対・ライバル関係の家で、政治的な婚姻とも言われています。
 この妻とは、3人の子をなしましたが、1195年頃別れて、同年、実宗公女という、威勢を誇る西園寺家の娘と結婚しています。

 ついでながら、定家の庇護者に、13歳ほど年長の、主家の、1186年年から22代摂政の、藤原(九条)兼実がいました。
 兼実自身の日記に「玉葉」があります。同母弟は慈円(「愚管抄」)、子女には、内大臣良通、次男良経(のち摂政)、妹任子(後鳥羽上皇の中宮、後の宣秋門院、)がいましたが、いずれも、土御門通親の陰謀、つまり、中級貴族ながら、妻が後鳥羽院(16歳)の乳母で、その連れ子・在子を天皇の後宮に入れ、兼実の娘任子との〈第1子生み競い〉で勝った、その土御門通親の権勢に破れて以降、1196年に失脚しました。

 「人は出会いによって育つ」、と著者は書きます。
 先駆的思想家とも言える西行との出会いは、定家に大きな影響を及ぼし、歌の道に専念する決心が強く沸きました。
 1186(文治2)年、定家25歳、西行69歳。伊勢神宮勧進・・西行が、神仏習合を厳しく拒絶し、僧徒参詣を厳しく拒絶していた伊勢神宮参詣をなし得たことは、驚天動地の大事件と言われます・・の「二見浦百首」です。
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋(とまや。苫葺きの小屋)の秋の夕暮れ
世に言う「三夕の歌」の一つを定家は詠みました。
 「三夕の歌」、西行の歌は、
心なき身にもあはれはしられけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ 西行法師
です。

 本書のクライマックス・・、
 父俊成が、91歳で、1204(元久元)年に死にます。「雪を食べたい・・」と言って。
」という字は、死者を草の間に置くと書きます。

 さらに、1201(建仁元)年勅命があった、「新古今和歌集」も、1216(建保4)年に目途がたってきました。しかし、後鳥羽院は、その後も入れる歌に嘴を入れて来ます。院が「古今珠玉集」という題にしたいというのは何とか押し返しました。

 本書には、編纂中の饗応のメニュー、飾り付けも、料理も伊勢物語に由来した非野蛮的・清廉繊細なメニューで、それは、詳しく書かれていますが、現在の目でみると、極めて質素な物。大陸と往来があっても、食生活は日本流を譲れなかった。勿論、歌が遊びになることが耐えられなかった定家は、出席しません。

 古今集の「選歌」は、人事問題でもありました。定家は、喘息に悩まされ、結石の小便に患わされ、足や眼の腫れ、灸を試みれば灸痕のただれに悩む、子も3人赤痢になったり、大変な苦労が続きました。

 1208(建永2・承元元)年、兼実が死にます。仙洞を中心とした上皇派の近衛家への遠慮から葬式にも、四九日にも心ならずも欠席します。
 本巻は、定家50歳、1211(建歴元)年の頃をもって終え、続編に続きます。
1209年からこの年まで、定家は、ほとんど歌を詠んでいません。しかし、「新古今和歌集」はほぼ成り、歌学もほぼ確立し、芸術が「家」のものとはなりました。
 定家が、没するのは、1241(仁治2)年、80歳です(日記が書かれたのは、74歳まで)。この後、約30年の歳月があります。

・・・約2年近くの間をおいて、書かれた「続編」(『定家明月記私抄 続編』)に続きますが、ゆっくりと味わいたいと思います。全編、新潮社の小雑誌「波」に、8年間連載されたものです。読み終えるのが惜しいほどです。

 このブログは、あちらこちらに出てくる関連項目を、西暦も入れて、簡潔にまとめたつもりではあります。★
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Re: タイトルなし

 能がお好きならお薦めです。
著者も、戦時中の思い出から、かなり思い入れがあって書いています。ちょうど昨晩、続編を読み終えたところで、老年は、体の不調と世の中の混乱、疫病に悩まされつつも80才まで、口は達者に生きたようです。
 

これは、感動人様の書評が良いから面白そうなのか、本当に面白いのか…。
堀田善衛の本は「ゴヤ」が凄く面白かった記憶があるのですが、これも読んでみようかなあ。
プロフィール

感動人

Author:感動人
 芸術全般を愛する団塊世代です。
 「引退後」、たっぷり時間をかけて、いろいろな芸術を初心にかえって学び、横断的に、楽しんでいきたいと思います。もうひとつ、心身共に健康に「年をとっていく」ための、生活のマネジメントも「同時進行」でお伝えします。
 のんびりと過ごしたいと考えています。お寄せいただくコメントなども、論争などは避けて、ゆったりしたお話をお寄せください。

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