オペラ 『午後の曳航』を鑑賞しました。最後に、「房子」が登場したのは驚き。
真冬の様に寒く、霧雨の降った、11月26日(日)、午後2時から、日比谷日生劇場で、
三島由紀夫(1925-1970) 原作、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ(1926-2012・独)作曲の、
オペラ『午後の曳航(えいこう)』
を鑑賞しました。千穐楽です。
席は、指揮者から離れた、中央最前列。しかし、隣席の観客が着ているセーターからの洗剤か柔軟剤の香りに耐えかねて、休憩の時に、席を2列目の遠くに代えてもらいました。
さて、前日の25日は、1970年(昭和45年)に、三島由紀夫が、市谷駐屯地(現防衛省)で割腹自殺した日にあたります。
原作は、1963年(昭和38年)に出版されています。この日までに2度読み、この日のオペラを楽しみにしていました。
作曲者ハンス・ヴェルナー・ヘンツェは、三島と違って、新左翼とか。どこでこの二人が交差したのかは、興味がありますし、このオペラに答えがあるかもしれません。
台本は、ハンス=ウルリッヒ・トライヒェル。今回の公演は、2005年改訂版ドイツ語上演です。初演は、1990年ベルリン・ドイツ・オペラで、その後、2003年にゲルト・アルブレヒト指揮・読売日本交響楽団で演奏会形式での日本語上演が行われています。今回は、それをドイツ語にした、日本初演となります。
演出は、宮本亞門
指揮は、アレホ・ペレス (1974-・アルゼンチン)
=新日本フィルハーモニー交響楽団
現代音楽とは言え、抒情性もあって、取っつき易い。美しいメロディーは無いけれど、エネルギッシュな演奏が、続きます。オーケストラは、ピットにおさまらずに、舞台脇にまで配置されています。
物語は、33歳まで、横浜で、ブティック(三島は、「舶来洋品店」と書いています)を経営して、少年「登」を溺愛して育てて来た、未亡人「黒田房子」が、船乗りの「塚崎竜二」と恋に落ちます。登は、13歳。登もこの海の男に憧れますが、房子と結婚の話が持ち上がって以降は、海の男の魅力が失われました。裏切られた思いの登は、秘密グループの少年たち5人で竜二を殺すに至ります。
黒田房子=北原瑠美
登、3号=新堂由暁
塚原竜二=小森輝彦
少年グループ1号(リーダー)=加耒徹
の布陣で、加耒徹が印象に残りました。
しかし、少年グループの衣装が、学生服のボタンをかけないで下は原色のTシャツという、典型的な不良少年姿で、工夫のなさ、貧困なイメージで、見ていてずっと不満でした。ウエストサイドストリーの愚連隊も思い浮かべました。ちょっと、そうでは無いのでは・・。
舞台では、常に、12人のダンサーが、主人公たちの心の中を投影したようなダンスを舞い、また、舞台転換の黒子としても動きまわります(振付けは、avecoo)。
舞台は、簡素ですが、黒子による舞台転換が目まぐるしく、早い。登が房子の寝室を覗き見する「目」などの映像など、様々照射されます。
舞台美術は、クリストフ・ヘッツアー
照明は、喜多村貴
映像は、バルチック・マシス
この舞台について、評論家の長木誠二氏が、パンフレットで、面白い例えを書いています。
「蝶々夫人」以来1世紀近くたっても、オペラは、いまだに、「不可解な、理解と誤解の産物である」と。まさに、三島とヘンツェの接点はどこに、は兎も角、両者の「落差」を感じます。
あるいは、そこに、さらには、演出家の考え、出演者の人物造形も含めた考えの違いも、このオペラには満ちているように思えます。そのあたりが、観ていて集中できない原点でしょうか。
これは、原作と違うとかそういう問題ではなく、それぞれの考え方の違い。
それは、このような心理小説の舞台化自体の難しさでしょう。心理を読み取るのは、それぞれ違いますから。
で、筆者は、この舞台はあまり良かったとは、思いませんでした。期待外れ。
登、竜二、房子の人物像も、筆者のイメージと乖離していました。それは、物語全体にも波及します。
ラスト、幕切れで、殺される竜二を見て、突然房子が出てきて絶叫しますが、蛇足。あれだけは、あまり感心しない演出だと思いました。
今年最後のオペラでした。終演後の、夕方の日比谷の夜景は、素晴らしかった。
寒いので、「花旬庵」で、温かい蕎麦を食べて帰宅しました。
あっ、シャーロック・ホームズのシリーズは、「恐怖の谷」(思いもしなかったラストでした !)を読み終えて、「シャーロック・ホームズの思い出」に入っています。もう、全て、読み終える先が見えています。★
スポンサーサイト
辛いコナン・ドイルの前半生を知り、『シャーロック・ホームズの冒険』を読みました。
11月13日から、NHKーEテレで放送されている「100分de名著」は、今、筆者が読み始めた「古今和歌集」です。
しかも、講師は、筆者も熟読した「和歌とは何か」(岩波新書)の渡辺泰明氏ではありませんか。
しかし・・、放送内容は、幾つかの和歌を詠みあげて解釈するだけで、工夫がありません。惜しい。
ところで、今は、毎晩、ベッドに入ると、これまでの「哲学図鑑」に代えて「古今和歌集」を読んでから寝ています。
和歌は、数多く味わうのが重要、だと思っています。
書店で、砂崎良 『1日1原文で楽しむ源氏物語365日』などという本を見つけました。面白そうです。
さて、先日、お話しした様に、〈鹿狩り帽〉(シャーロックハットとも)を買って以来・・下の右の写真です。因みに、今年は、耳当てのある帽子を随分売っていますね・・、
76歳になって初めてアーサー・コナン・ドイル(1859-1930)のシャーロック・ホームズ・シリーズを集中して読んでいます。面白い。ほんとうに、集中しています。60作品あります。
小学生の頃、江戸川乱歩の「少年探偵団」全巻を持っていて集中したのを思い出します。乱歩は、戦後、手の裏を返した大人たちの態度に失望して、大人向けの小説は書かずに、子供向けの小説だけを書きました。それだけに面白かった。
ドイルの、「緋色の研究」(1887)、「四つの署名」、「バスカヴィル家の犬」の長編(全部で4作あります)から、ちょうど、「シャーロックホームズの冒険」を読了し、現在、長編4作目の「恐怖の谷」を読んでいます。これで長編は、全て読んだことになります。
ところで、シャーロック・ホームズの作品では、〈メアリー〉という登場人物は、たいてい悪女と言うことに気づきました。9作ほどにこの名の女性が出てくるとか。
河出書房版「シャーロックホームズ全集」第3巻の小林司、東山あかね氏の巻末「解説」によると、コナン・ドイルの母メアリー(旧姓メアリー・フォリー)は、下宿人の、母の14歳下で、ドイルの先輩医師・ブライアン・チャールズ・ウオーラー(1853-1932)と不倫して、駆け落ちし、マッソンギル村で35年間暮らし、女児も生んでいます。
父・チャールズ・アルタモント・ドイルは、アル中とてんかんで精神病院に14年間入院して、1893年に没しています。
自伝などではあまり触れていませんが、父のことは迂遠にして触れず、母のことは憎んでいたようです。
ウオーラーは、ドイルの姉アンネットにも、ちょっかい出して、姉はポルトガルのリスボンに逃げてしまいました(後、インフルエンザで没)。
「シャーロックホームズの冒険」の連載が始まったのが、1891年7月で、単行本が出版されたのが1892年です。
前記のことを知ると、この短編すべてに、このような人生の鬱積されたものが隠れている、という前記「解説」は説得力があります。
因みに、ドイル自身ですが、最初の妻・ルイーズ・ホーキンス(1893年発病し、1906年に結核で没)と結婚したのは、1885年8月で、ドイル24歳、ルイーズ26歳でした。子どもが2人います。
2度目の結婚は、48歳の時、1907年、ジーン・レッキーで14歳下でした。子どもは3人。1897年から恋愛関係にありました。
晩年は、心霊主義者で、あまり評判は良くありません。
シャーロック・ホームズの読書は、山を越えましたが、筆者は、どちらかと言うと、スケールの大きい長編のほうを好みます。
もっとも、短編の、ヴィクトリア朝時代(1837-1901)、英国の風俗描写も、ノスタルジーに満ちていて好きです。
いずれも、主に会話で物語が進みますから、ジョン・H・ワトスン医師は欠かせません。書物は、2,3の例外を除いて、全て、ワトスンの回顧録からの再掲形式になっています。
最後、全く余談ですが、先日、日比谷シャンテで、出雲の來間屋(くるまや)の生姜糖を見つけたので、買って来て味わっています。大好きなんです。ここで買えるとは思っていませんでした。
明日は、白内障の手術から3か月たったので、いよいよ眼科で検眼してもらって、新しいメガネを造る予定です。★
オペラ 『マクベス』(ヴェルディ)に感動しました。前日には、『舞台フォーラム』も聴講。
一転、木枯らしの寒い11日(土)、14時から、日比谷日生劇場で、
ヴェルディ 『マクベス』
を鑑賞しました。
ヴェルディ (1813-1901) が、33歳の時の10作目の作品で、原作者シェイクスピア (1564-1616) 46歳の作品です。
この日の席は、前から3列目の通路側。互い違いの列が、飛び出たほうの見やすい席です。
前日の10日には、まるで〈前夜祭〉というムードの『舞台フォーラム2023・マクベス』も聴講し、その夜は、近くのホテルに泊まりました。
フォーラムは、後述する、粟國、チャンマルーギ、大島氏らがパネリストで、舞台転換も公開した充実したものでした。
オペラの演出は、粟國淳さん。筆者が、定年後に勤めた文化財団の事務局長であった折に、オペラ演出をお願いしたことがあります。その時は、初顔合わせから、練習、ゲネプロ、全公演日、打上げまで参加し、これでオペラファンになりました。それ以来、東京以外の公演、神奈川、名古屋、愛媛・・と粟國さんのオペラは、まめに〈追っかけて〉観ています。
今回の演出は、黒々した闇の空間で、紗幕を多用した心理劇とした円熟の完成の域に達しています。ほとんどが紗幕で、照明は、前から当てられないので、さぞ苦労したでしょう(照明・大島祐夫)。
城などは出てこず、床は泥で、天井から大きな枯れた木のセット(芯に鉄を遣った発泡スチロールに石膏・布・紙で細工したもの)が吊るされた中で物語が進みます。
前述の筆者のオペラ体験の時と同じく、舞台が、後ろが高く勾配(14度ほど)しています(美術、衣装・アレッサンドロ・チャンマルーギ【伊】)。
声楽陣では、レディ・マクベス(マクベス夫人)の田崎尚美が素晴らしい。夫をけしかけ続けるも、最後は眠れなくて死に至ります。
「野心があるが覚悟の無い」、とレディ・マクベスに言われるマクベスの今井俊輔も悩める姿をよく出していました。
バンクオーは伊藤貴之、マクダフは宮里直樹、マルコムは村上公太。
もう、皆、誉めたいのですが、いつもながら、C・ヴィレッジシンガースの約30人の合唱が、特に、素晴らしい。不気味なキリコの絵画の様な、お面を被っての魔女の熱演、ウクライナ難民を彷彿させる難民姿等でしたが、公演ごとに演目に合わせて編成されるこのコーラスはいつもながら見事です。
今回、あまり主張は強くありませんでしたが、広崎うらん振付けの、6人のダンスは、心理劇の裏をしっかりと固めていました。
勿論、沼尻竜典の指揮と読売日本交響楽団の演奏は、行き届いていて、かつ、迫力満点でした。何度目かですが、この日は、カーテンコールで、小柄でまじめそうな、沼尻さんをじっく!拝見しました。
要するに、全て良かった。
それにしても、文楽からアイデアを得たと言われる巨大なマリオネットの魔女も、なかなかのアイデアでした。
演劇的には、闇の心理劇から、クライマックス(初演バージョンとパリバージョンがありますが)の「正義が勝つ」ダイナミックさには、やや違和感を感じ、悪の面から描いて欲しかったが、これは無いものねだりです。
なお、筆者は、2013年5月に、コンヴィチュニー演出で本作品を観ていますが、今日の公演は、兎に角、理解しやすい(ダンカン王の暗殺場面まで照射されます!)、しかも、一気呵成に物語が進みます。
因みに、DVDは、パルマ・レッジョ劇場のリリアーナ・カヴァーニ演出、マクベスがレオ・ヌッチの、ライブ盤(2006年収録)を持っています。
お終いに、日生劇場主催公演、今回は、「開場60周年記念」だそうですが、ここはいつもご招待客が多い様に感じるのです。この日は、前列2列目が、数席まとまって空席でしたが、荒天で来なくなった招待客では、などと勘ぐってしまうのはダメかな。
それは兎も角、マスク姿も、めっきり少なくなって、ブラボーの掛け声も多い、オペラを楽しんでウキウキ帰れたこの日でした。
月末には、もう一度、三島由紀夫原作をオペラにした「午後の曳航」に来る予定です。これは、すこぶる楽しみなんです。★
渡辺泰明 『和歌とは何か』。例示の和歌は、声に出して、時間をかけて読んでいます。
はじめに、この歳になって読み始めた、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズですが、長編の2冊「緋色の研究」、「四つの署名」と執筆順番通りに新潮文庫で読み、次には、執筆順序を逆にして、河出書房版ハードカバー版の「バスカヴィル家の犬」を読み、今、短編集「シャーロック・ホームズの冒険」を読み出しました。
ここまで来たら、後は余裕を持って、ゆっくり読んで行こうと思います。図書館で、DVDも借りるつもりです。
河出書房版ですが、初版時の挿絵があり、また、注釈が載っているので、「ムア」などと言った、ちょっとした固有名詞など知るのに役立ちます。
ところで、急にシャーロックに凝りだしたのはなぜかって?・・、面白いのにつきます。
さて、「源氏物語」を楽しむには、和歌を楽しめなければ、と、これも、この歳になって和歌を勉強しだしました。
先だって、簡易な、渡辺泰明編「和歌のルール」を読みましたが、今回読んだのは、
渡辺泰明 『和歌とは何か』(岩波新書)
です。
あっ、同じ著者ですね。
こちらは、著者の長年の学者としての経験を生かし切ったような書き方で、取っつき易く、好感が持てます。
どういうことかというと、長年の、大学での講義での、学生の答えや疑問点を踏まえているし、書き方も、ゼミのように、問いを発するのです。
例えば、序詞では、短歌の下の部分(主題部)を書いて、これに当てはまる上の句、序詞部分はどれか選べ、と言った感じです。筆者は、何度も声に出して音読し、一日置く丁寧さで考えましたが・・回答出来ませんでした。
それでも、本書は、前に読んだ「和歌のルール」と同じく、枕詞、序詞、掛詞、縁語、本歌取り、の順序で書かれていますので、もう一度、両書を読むと、随分、理解が違う筈です。
これで、座右の「古今和歌集」(日本古典文学大系)や、「源氏物語」(岩波文庫)を丁寧に読んで行けば、古典に相当入って行けそうです。こちらは、歳相応の、生涯の読書の楽しみ。
さて、今週末から、季節相応の気候になりそうですが、金・土曜日と、日生劇場の舞台フォーラムとオペラ「マクベス」を楽しみます。近くのホテルに一泊します。今月末は、もう一つ、三島由紀夫原作のオペラも予定しています。
葛飾応為の「吉原格子先之図」は、今日、観に行く予定だったのですが、雨で止めました。楽しみにとっておきます。★
ホームズから、清水婦久子 『光源氏と夕顔 ー身分違いの恋ー』そして、稲岡大志 ほか『世界最先端の研究が教える すごい哲学』まで渉猟しました。
11月だと言うのに残暑とは・・。
『波』(新潮社・月刊PR誌)11月号、筒井康隆「心臓と血管」の、作者が、心臓疾患で心臓血管研究所附属病院(西麻布)に救急搬送され、カテーテル手術した話題で、「東京に居たから良いようなもので、神戸の自宅に居たら神戸徳洲会病院に運ばれて死んでいたろう」、と、同院を滅茶苦茶貶しているのが凄いというか・・。
ところで、「鹿追い帽」(シャーロックハット)を買ったこともあって、アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズの第1作(1887年刊)、『緋色の研究』(新潮社)を、人生、遅まきながら読了しました。
途中、第2部から、別の物語が始まったのか、と思いましたが、実は、これ犯人の動機の物語で、すこぶる面白かった。が、こういう書き方は、まだ、初期の未熟さゆえのようです。後述の第2作も同じです。
昨夜、『ちくま』(筑摩書房・月刊PR誌)を読んでいたら、裏表紙に、河出書房の「シャーロックホームズ全集」全9巻 新訳が刊行開始され、9月に「緋色の習作」が出ていることを知ったので、図版も興味あるので、早速、比較して読もうと考えています。因みに、この全集では、前述の書名からして「研究」では無くて「習作」となっています。
なお、〈緋色〉は、英国では、犯罪のことで、今更ですが、物語は、ジョン・H・ワトソン医師の回想録という形式をとっています。
なお、電子書籍のkindle・oasisで、第2作(1889年刊)の「四つの署名」(新潮社)を買って読み始めました。なお、先の新訳では「四つのサイン」と訳されています。
ドイルのシャーロック・ホームズシリーズは、短編が多く、60編ほどありますが、
河村幹夫 『ドイルとホームズを探偵する』(日経プレミアシリーズ)
は、ドイルの人生と、その途上に書かれた物語を知るのに有益でした。これで、折に触れて、出版順に60編を読もうと目論んでいます。
さて、相変わらず、「源氏物語」を〈研究〉中ですが、ここに来て、「源氏物語」は、和歌を中心に読むべきではないか、と再認識しています。
したがって、読み方は、
1、さしあたり全帖のあらすじを簡易な現代語訳で知り、
2、別途、当時の道長周辺の人物、宮廷、貴族の歴史等を調べたら、
3、腰を据えて、「原典」を読むべき、
と思うのです。原典は、最初からにこだわらず、好きな帖(筆者は「夕顔」からですが)、どこからでも構わないと思います。幸い、岩波文庫から読みやすい新版が出版されました(驚くべきは、kindle版まで出ました。)。
ただ、留意すべきは、和歌の解釈も、例えば「夕顔」で言えば、本居宣長の文法に忠実な訳(「玉の小櫛」1790頃の作)に影響され、文法に偏った解釈に現代までの多くの識者・訳者が引きずられて(文法的に正しいのであれば反論できませんからね。そこで、現代語訳の文章などで、意訳するわけです。)、和歌本来の解釈からズレた読み方をしているものもあるので、原典を読みながらも、時には、図書館に行って比較研究、あるいは「引歌」となっている古今集(旋頭歌1007など)も参照にしてみるべきでしょう。
手間は、かかりますが、生涯の読書に値します。
このことを、
清水婦久子 『光源氏と夕顔 ー身分違いの恋ー』(新典社新書)
を読んで、つくずく感じました。
本書は、比較的平易ではありますが、全編、例の贈答歌「こころあてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花」一句についての和歌解釈の全編「論文」とも言える書物で、一読の価値があります。
夕顔が、ヨルガオでは無くて、実がカンピョウになるウリ科の野菜であるこも知りました。
前置きが長くなりましたが、今日の書物は、
稲岡大志 ほか『世界最先端の研究が教える すごい哲学』(総合法令出版株式会社)
です。
筆者は、暇なときは、就寝前に、田中正人『哲学用語図鑑』(プレジデント社)正続、2巻を読んでいることはしばらく前にお話ししました(2023年1月26日ブログ記事参照)。この書は、評判の、千葉雅也「現代思想入門」(講談社現代新書)でも薦められています。
その様なことから、今回の書名に魅かれて飛びついたわけです。
本書は、多くの若い学者が、最先端と感じる問題を、各項4頁前後で分かりやすく解説しています。
それは、それで、興味が尽きない話題ばかりですが、読んでみると、やはり、前記の「図鑑」の様な書物で理路整然と読んだほうがタメになります。
たしかに、「スポーツとゲームの差異」など、日ごろ意識していないことを改めて考えるきっかけになったり、「プレーオフは、不確実性のドラマを楽しむ意味がある」など、なるほどそうだなあ、と思ったりしますが、「サスティナブルなファッションを選ぶには」、「マッチングアプリ、過度の一般化はいけない」、「悪口はどうして悪いか」、「展覧会の絵は多くの要素に目を向ける」等等では、ありふれた結論に導かれる様に思えます。それが、哲学だ、と言われてしまえば身も蓋もありませんが。
「モナリザ」はトークン(一例)である、会社の設立から解散までの〈存在論〉、色の反実在論(色は、心の中にあるとする主観説)・多元論、三段論法のモーダス・ポネンスとモーダス・トレンスなど、難解な議論もあります。
「幽霊は存在しない」ことの理屈付けは面白いでしたが、それがクワインの「存在論的にコミットする」となると難しい。
一方、批判の内容では無く、口調を責めることをトーン・ポリーシングという・・等の用例は新鮮に覚えました。知っておくと良いですね。
総じて、哲学の基礎を理解しないで、本書の様な議論をすると、ついていけないのはまだしも、哲学と言うものを誤解しはしないでしょうか。
ただ、日頃から、このように根本的に物事を考える習慣があると、何についても、すぐ適切なコメントが出来ること請け合いです。本書は、そのことに気づかされて有益です。★
『デイヴィッド・ホックニー展』の「両親」の絵に感動しました。
まさに、秋晴れ。妻と、新橋から木場(きば)の「東京都現代美術館」まで、遠回りして、40分かけてバスで行きました。
遠回りには、ワケがあって、久しぶりに新橋の町中華「長崎街道」で、〈皿うどん〉を食べたくなったからです。そこは、新橋3丁目の、大通りから少し入った路地の、15人程度しか入れない長崎料理の店です。
確か、4年ほど前に、NHKテレビの「サラメシ」で、長崎出身の、近くに勤める会社員が、部下を連れて行ったのを観て知りました。昼は、皿うどんと長崎ちゃんぽんだけのランチ。夜は、長崎料理の飲み屋となります。
正直、ここの皿うどんを食べると、ほかで、固焼きソバなどは食べられなくなりました。
余談ですが、食事中、店のラジオで、「テレフォン人生相談」をかけていましたが、まだやっているんだ !
食後は、新橋駅から、「業10」の都バスで、「現代美術館前」まで乗ります。これが、暇な時なら実に良い。
なにせ、銀座四丁目、築地、勝鬨橋、月島、豊洲、塩浜そして木場と繁華街を縦断します。
ところで、バスに老人が乗ってくると、座っている人が、何気なく立って後ろのほうに行くのを2度見ましたが、日本人て、たしかに親切だ。
さて、前置きが長くなりましたが、東京都現代美術館で、
『デイヴィッド・ホックニー展』
を鑑賞しました。チケットを買うのに、少し行列。さすが、人気があります。並んでいる人は、外の、ビルの間に見える「とうきょうスカイツリー」の写真を撮っていました。
1937年生まれの、ホックニーの、日本では27年ぶりの大規模個展で、近作(例えば、2022年6月作品「額に入った花を見る」など)の多いのが特徴です。
展示構成は、第1の「春が来ることを忘れないで」から、第8の「ノルマンディーの12月」まで、比較的大作が並びます。
ホックニーは、英国北部のブラッドフォードに生まれ、64年にロサンゼルスに移住しましたが、現在はフランスのノルマンディーに住んでいます。
近時の、iPadで描いた作品(iPadは、バックライトで画面の明るさが保たれます。)や、50枚のキャンバスの作品(「ウオーター近郊の木々」)、32枚のキャンバス(「春の到来 イースト・ヨークシャー」)、
さらには、90メートルの「ノルマンディの12か月」(これは、コロナ禍に描かれました。ちょっと、他の画家がコロナ禍に描いた作品と比べてしまいますが。)もインパクトが大きいですが、
筆者は、70年代の、会場で言えば、第3の「移り行く光」、第4の「肖像画」の時代の作品が好きです。
とりわけ、今回、英国テート(美術館)から来た、同所蔵の3点のうちの、「両親」(1977)は、帰りにポストカードも買うほど好みです。
余談ですが、筆者は、テートのTシャツを着て行きました。
その意味でいえば、この時代の、60-70年代の作品がもっと沢山観たかった。
ホックニーは、周囲に何気なく存在している物をいかに平面に写し取るか、それを鑑賞者にいかに見せるかという命題を生涯をかけて愚直に追ってきた作家です。
それが、現代美術でありながら人気が高い理由の一つでしょう。
さて、その意味で、画業60年を越え、現代最高の作家と冠せられていますが、長いキャリアの価値というものはどういう価値を生むのか、あるいは、反面、やり尽くした感というものが無いのか、とも考えてしまいます。
会場では、iPadでの作品製作過程や、50枚のキャンバス製作過程を説明した映像が見られ、長いのですが見入ってしまいます。
因みに、自画像です。
会場のショップにも置いてありましたが、
ホックニーの著作、
・「はじめての絵画の歴史ー「見る」「描く」「撮る」の秘密」(青幻舎インターナショナル)
・「絵画の歴史ー洞窟絵画からiPadまで」(同上)
・「秘密の知識ー巨匠にも用いられた知られざる技術の解明」(青幻舎)
は、ぜひ、読みたいと考えています。最初の書物は、児童書ですが、大人に評判が良いようです。特に、iPadのくだりは、興味があります。
展覧会鑑賞後は、少し並んで、二階のカフェ「二階のサンドイッチ」で、パイナップルのサンドイッチとレモネードを味わって、帰りは、木場周りで、地下鉄で、帰途につきました。
なお、会場構成は、既述、第1 「春が来ることを忘れないで」、のほか、第2「 自由を求めて」、第3「 移り行く光」、第4 「肖像画」、第5「 視野の広がり」、第6「 戸外制作」、第7「 春の到来 イーストヨークシャー」 第8 「ノルマンディーの12か月」、となっています。
第7、8は、写真撮影ができるので、大きな作品の前で、皆さん、記念撮影をパチパチ。勿論、筆者も。
楽しい一日でした。★
シャロックホームズの帽子を買ってから、上野の『横尾忠則 寒山百得』展に。
まだ、真夏日です。
このところ、ずっと、「源氏物語」夕顔の、「心あてにそれかとぞ見る白露の光そえたる夕顔の花」の歌の解釈論争を読んでいます。詳細は、後日に。
気晴らしに、若い時からの行きつけである、大手町の理髪店に行き、その後、丸善に寄って、昨年からずっと頭にあって、欲しかった、英国製の「鹿追い帽」(ディアストーカーハット)を買いました。Harris Tweed 製。
シャーロックホームズがかぶっているので、「シャーロックハット」とも言います。
シャーロックホームズは、あまり読んでいなかったのですが・・。
でも、早速、コナン・ドイル 『緋色の研究』(新潮社)を買いました。読むノルマがまた増えました。
さて、それから、上野の東京国立博物館 表慶館で開催中の、
『横尾忠則 寒山百得』展
に行きました。
横尾忠則は、2021年に、東京都現代美術館で、「GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は ?」を観て以来、興味を持っている画家です。
加えて、この日、どうしても行くのを先送りしたく無かった理由は、開催場所のことと、本館での「寒山拾得」特別展が11月初旬までのこと、の2つのがありました。
会場ですが、普段は、閉じられている、1908年(明治41年)完成の、重要文化財である「表慶館」です。大正天皇となる皇太子嘉仁親王のご成婚を祝って、市民の寄付で造られた美術館です。
設計は、同じころ、迎賓館赤坂離宮も設計した、コンドルの弟子である片山東照です。
建物に入ると、展示の入館手続きの前に、まず、光さす、高い天井を見上げてしまいます。
しばし、建物に気を取られましたが、肝心の、横尾忠則作品は、コロナ禍でアトリエに閉じこもっていた頃に描いた100点余の作品が展示されています。
「寒山拾得」に触発されたと言っても、寒山や拾得(ここでは百得)の文章に仮託したような作品では無く、自由闊達に飛躍した作品です。
寒山・拾得が、トイレットペーパーや掃除機を持っていたり、あるいは、モネの「草上の昼食」や、さらには、ドン・キホーテ・・等等、様々なパロディっぽい絵がたくさんあります。安倍元首相が森、猪瀬はては、寒山、拾得も加わって、オリンピック招致を喜ぶ絵まであります。こんな発想が、良く浮かびました。
先日、横尾忠則の「日記」も読みましたが、アトリエでの想像、空想、アイデアの広がる様が理解できましたが、それで、このような発想が浮かぶのですね。展覧会を見て、頭の中の硬さが吹っ飛んだ感じ。本当の意味で、気分転換になりました。
なお、展覧会は、写真撮影もOKです。
本展鑑賞後、「本館」2階特別室では、元祖 ? 寒山拾得の絵を何枚か見られたのは良かった。
ここには、国清寺の豊干(ぶかん)の大きな絵もあります。怖い顔をしている僧なんですね。
なんだかだで、この日は、1万2千歩歩き、心地よい疲れで帰宅しました。★
戻ってきた「ブラボー!」~ オペラ『ドン・カルロ』を鑑賞しました。
やはり、良いですね。「ブラボー!」の掛け声。コロナ禍で、長らく禁じられていましたが、ようやく解禁です。
早朝からの強い雨が、昼頃には止みました。一面、金木犀の香りで、大地が香水をつけたようです。
さて、15日(日)、上野の東京文化会館で、重く、長大な(休憩を入れて4時間半)、
オペラ『ドン・カルロ (5幕)』(ヴェルディ)
を鑑賞し、心から楽しみました。
演出は、ロッテ・デ・ベア(1981-)
ウイーン・フォルクスオーパー芸術監督で、コンヴィチユニューの元で研鑽を積みました。

指揮は、レオナルド・シーニ
=東京フィルハーモニー交響楽団、二期会合唱団
舞台美術は、クリストフ・ヘッツァー、照明は、アレックス・ブロック
アクション・振付けは、ラン・アーサー・ブラウン
以前、このオペラを観たのは、DVD(リュック・ボンデイ演出、アントニオ・パッパーノ=パリ管弦楽団。カットなしの完全版です。)と、
このブログ記事にもあるとおり、2014年2月19日の舞台でした。
この時は、演出が、デイヴィッド・マクヴィガーで、正統的な、教科書の様な演出でした。夜の部で、この長大なオペラを、心なしか皆さん、帰りを気にして、長い拍手も遠慮されている雰囲気でした。筆者は、オペラ終了後ホテルを予約していました。それもあって、今回は、「昼の部」(14時開演、18時20分終演)にしました。席は、前から3番目の中央通路側です。
今回の演出は、時代は、20から30年の「少し先の未来」に設定。
冒頭に、パリ初演時には既に削除されていた民衆の苦難を物語る導入部が入れられています。これで、物語の理解がずっと、深まります。その先の、〝ベッドシーン〟には驚きましたが、理解できる流れです。
終幕部は、観たことの無い、ちょっと理解に苦労する異色の終わり方です。
因みに、「火刑」場面はありません。また、王がカルロスに刀(ナイフ)を返してからのアリアはカット。
余談ですが、拳銃が頻繁に出てきたので、国王にカルロが歯向かう時に、通常は剣なので、何を遣うのか、まさかピストルではあるまいな、と思っていたら、ナイフでした。
途中、3幕では、ゲルハルト・E・ヴェンクラー(1959ー)の「プッシー・ポルカ」が、挿入され、反プーチン・反権力色が出て来ます。パロディ的とは言え、他の作品を入れるのは・・気がつけばですが・・賛否両論でしょう。
舞台は、大きな、黒っぽい灰色の高い壁が中央にあり、頻繁な、場面転換にも効果的に利用されます。
壁が奥にある時は、上部の大きな空間と相まって、人物がすこぶる小さく見え、世界における人間の卑小さを表しているごとくです。
なお、この壁によって、声楽陣の声の反響がすこぶる良い、という好結果になりました。
余談ながら、終幕で、こ大きな壁のセットでは、カール5世が、カルロをどう引き込むのか、期待していましたが、肩透かしでした。
装置は、簡素。人物の服装は、ハプスブルグ家の黒では無くて、皆、白系統です。大体が、全てモノクロームの世界で、グランドオペラの華やかさは全くありませんが、舞台に引き込まれます。
この日は、カーテンコールの写真撮影が許されました。
皆が主役と言える、重要な人生を背負ったオペラですが、今回の主な声楽陣は・・、
苦悩するフィリッポ2世は、ジョン・ハオ(2014年の時も同役でした。)
・・「理想の実現には権力が必要だが、権力を得るには理想を捨てなければならない、と言いますが、悩める権力者を演じて絶品でした。秘密警察風の一団が出てきていろいろヤリますが、プーチンを彷彿か。
愛とフランドル独立を希求するドン・カルロは、樋口達哉
・・少し、恋するばかりの王子のイメージで、優男風の印象が残ってしまいます。歌は、やはり上手い。
フランドル独立を希求し、カルロの親友の大貴族ロドリーゴは、小林啓倫
政略結婚でフィリイポの后となりスペインに来ましたが、本来はカルロが許婚者であったエリザベッタは、竹多倫子
一方的にカルロに心を寄せるエボリ公女は、清水華澄(2014年も同役でした。)
両者、素晴らしい歌唱力と演技。
余談ですが、第5幕のエリザベッタ。アリアの後、床に置いてあったらしいコップの水をゴクンと飲み、カーテンのところに返しに行きましたが、あれは、筋ではないんですよね。どうでもいいけれど。
宗教裁判長は、狩野賢一
・・陰険な陰謀者というより、活動的な権力者そのまま。王などへの口への長い接吻は、性加害的 ? 昨今の、出来事を取り入れたかな。
・・という布陣です。
ところで、このオペラに関しては、反乱の起こる「フランドル」の地政学的位置づけ、スペインとフランスとの政治的関係を整理しておくために、書棚から、約10年ぶりに、
川成洋ほか『スペイン王権史』(中公選書)
を持ち出して来て再度研究しました。
(以下、下記の「続きを読む」をクリックしてお読みください。)
『寒山拾得』を読みました。横尾忠則『寒山百得』展の予習です。
ようやく、我が家の金木犀が、昨日から咲き始めて、周囲に良い香りが漂っています。例年よりも、2,3週間遅れです。
どうも、目がドライアイの様なので、例によって、いろいろ調べて、〈新ロート ドライエイドEX〉の目薬を買いました。〈第3類医薬品〉(これが重要 !)で、粘度が60倍もあります。目から水だけでなく油も出ていて、これが重要だと知りました。
さて、本題です。東京国立博物館 表慶館で開催中の、『横尾忠則 寒山百得』展を見に行くので、原典を読んで、予習しました。
展覧会は、〈百得〉で、〈拾得〉ではありません。読んだのは、
久須本文雄 『寒山拾得 上・下』(講談社)
です。
寒山(かんざん)は、天台山(現在の浙江省)近くの重巌(重なり合った山々。)の岩穴に住む、禅家的な仏家(道家ではなく)の居士(僧ではなく)です。
詩を竹、石、木、壁などに書いて、その数は、三百首(一説では、五百とも)となります。詩は、「人間いかに生くべきか」や、教戒詩(民衆を諭し、戒める説教的な詩)です。
寒山は、時々、天台の国清寺に赴きます。
拾得(じっとく)は、国清寺に住み、その食堂係をしていて、寒山に、残飯などを入れた竹筒を与えています。
二人は兄弟の様に仲良く(本書、23番目の拾得の詩には「兄と思っている」と書いています。)互いの分身のようです。約五十首ほどの詩があります。
国清寺には、豊干(ぶかん)という禅僧がいます。寒山と、心について名月の様な境地を語り合ったりしています。
この三人を、国清三隠と言います。
時代は、初唐から晩唐の時代と推察されます。寒山は、行動が、文学・思想・知恵の性格から、文殊菩薩に例えられ、国立博物館に残されている絵には、巻物を手にしています。
(今回、その絵も、11月5日まで、本館で展示されています。)
拾得は、実践、行動の人で、普賢菩薩に例えられ、同絵では、竹箒を持っています。
(因みに、横尾忠則作品では、巻物はトイレットペーパーに、竹箒は掃除機になっています。)
さて、閭(りょ)丘胤(いん)「寒山詩集」の「序」によれば・・、
寒山は、もともとは、富裕な農家を営んでいましたが、ある時、他人からの非難や、妻のよそよそしい態度などに立腹して、妻子を捨てて家を出ました。科挙の試験を受けていましたが、合格はしませんでした。
貧困。山にこもり、人々から狂人も扱いされましたが・・、
「重巌(ちょうがん)に我れ卜す」(本書、1番目の詩)・・、人も来ない山奥で、
「凡そ(およそ)我が詩を読む者は」(同2番目の詩)・・読者に、心を清浄に保つことを求め、
蓬頭垢面、断衫(だんさん)破衣で、詩を作り、安身の日々を送りました。
横尾忠則は、コロナ禍で家に閉じこもっていたおり、寒山のような心境で、約100作品を描いたのでしょう。
これらの基礎知識をもとに、早速、展覧会に行こうと思います。
急急如律令・・(漢代公文書の終わりの常套句。急を要する意味も含まれています。)
なお、コロナ禍初期の記述の入った、
横尾忠則 『横尾忠則 創作の秘宝日記』(文藝春秋)
も読みました。
「普賢菩薩・文殊菩薩」の記載が、2020年2月10日に出てきますが、まだ、今回の作品は、それほど書かれていません。
本書では、氏の人となりに改めて触れられましたが、作中、著者が見た「夢」の記述がカタカナ書きで多く出てきて、読んでいてやや煩わしい。
成城のファミレスを仕事場の一片にしているのも、この時代、さすがと言うか驚きです。就寝前に少しずつ読んでいます。★
シェイクスピアのオペラの予習です。それに、いよいよ高血圧の薬を飲み始めました。
えっ、ダンサーが、皆、男性 !
「魔女」のはずですが・・。
ちょっと早いのですが、来月、観劇予定のヴェルディのオペラ『マクベス』のチラシを見ていて驚きました。
日生劇場での公演で、演出は、私が好きな粟国淳です。
指揮は、沼尻竜典。振付けは、広崎うらん、です。
『マクベス』は、2013年5月に、あの!コンヴィチュニー演出で観ましたし、レオン・ヌッチがマクベス役のパルマ王立歌劇場のブルーレイDVD(演出は、リリアーナ・カヴァーニ)を持っています(これは、素晴らしい!)。
粟国淳さんは、比較的、オーソドックスな舞台造りなんんですが、今回は「日生劇場開場60周年記念公演」「新制作」とあるので、斬新な舞台を期待しています。
また、初日前日の夜には、「舞台フォーラム」があって、舞台装置、照明、衣装などを公開してのフォーラムがありますので、それを観て、翌日は、本舞台、となりますから、近くのホテルも予約してあります。
と言うわけで、早速、小田島雄志訳「マクベス」(白水社)
を読んで、復習しています。
翻訳家の松岡和子さんが言っていましたが、マクベス夫婦のそれぞれのセリフは、「I」(私)でなく「We」(私たち)なのに留意する必要があります。
さて、今度の日曜日には、東京文化会館でオペラ『ドン・カルロ』、来月は、もう一つ、日生劇場でオペラ『午後の曳航』(三島由紀夫原作。これも、再読中です。)と、ようやくコロナも明けた感じです。
話が変わりますが、ところで、いよいよ、血圧を下げる薬を飲み始めました。
かねてから、血圧が、170前後の時が多かったので、かかりつけ医から血圧を下げる薬の服用を勧められていて、また、白内障の手術の時も高血圧を指摘されたので、観念して飲むことにしました。
で、ベンキョウしましたよ。血圧を下げる諸原理と薬の種類を。あるんですね、理屈が。
よく、「私、血圧の薬、飲んでます」と言う方も、理屈を知って飲んでいるんでしょうか。そんな上から目線の話は、やめて、筆者の 薬は、
「ミカルディス 20mg」
です。
一般薬剤名(ジェネリクス薬剤名も)は、「テルミサルタン」錠で、「胆汁排泄型 持続性 アンギオテンシン受容体ブロック(ARB=サルタン)」の薬剤と言われます。
正式名称を読むと怖くなりますが、要は、アンギオテンシンによる血管収縮を少なくして血圧を下げる原理です。多くは、40mgが使われますが、筆者は、最初、20mgから始めたわけです。
因みに、よく、血圧の薬を飲んでいるからグレープフルーツを控える必要があると言う薬は、「カルシウム拮抗薬」で、筆者の飲む薬とは異なります。こちらは、血管を広げて血圧を下げます。
すべてがそうではありません。
また、筆者が、白内障手術の時に、血圧が上がって、下げるために胸に貼付されたのは、心拍数を押さえて血圧を下げる「β(ベータ)遮断薬」です。
いろいろあるんです。
このほかに、「利尿薬」もあります。体に水分が残って血圧が上がるのを防ぎます。よく、塩分取りすぎが体に良くないと言われますが、この薬効のように、きちんと説明される必要があると思います。ただ、「塩分を控えなさい」、だけでは舌足らず感が否めません。
ま、一日1回服用で、心配する様な副作用は無いとされていますので、安心です。
今回、薬剤による高血圧対策の〈理屈〉をYoutubeで調べて随分勉強になりました。ネットの文書を読むより、競って説明を尽くしているYoutubeの動画ほうが、断然良いですね。以前、白内障でも役立ちました。
こんなに薬剤の種類があるのも知りませんでした。多分、高血圧で、医師が処方するのは、カルシウム拮抗薬かテルミサルタンでしょうが、事前に知っておくのは、有益です。★
『古今和歌集』を読み始めました。
いきなりですが、国立劇場「あぜくら会」を退会しました。建替えで6年以上かかるからです。建設の入札も3回不調だったとか、これでは6年以上かかるのでは。
やっと庭の虫の声が聞こえて来ましたが、可哀そうと思いつつ、雑草を刈り取りました。
「あききぬと めにはさやかに見えねども 風のをとにぞおどろかれぬる」
ところで、例年、もうとっくに咲いている金木犀が、さっぱり咲く気配がありません。猛暑の影響でしょうか。
やっとの、「秋」ですが、秋の掛詞(かけことば)には「飽き」もありますので、気を引き締めています。
掛詞、一つの言葉で複数の意味を伝える和歌の技法ですが、「源氏物語」を読みつつ、新たに読んでいるのが、
『古今和歌集』(「日本古典文学大系」岩波書店)
です。
まずは、毎晩、「巻第四秋哥」、秋を詠(哥)った作からランダムに読んでいます。
数年前、古書店で買って(2400円➡500円)、ずっと書棚に置いていたものをやっと手に取ったわけです。
「古今和歌集」から「源氏物語」に流れ、「源氏物語」から「新古今和歌集」に流れた、と言いますから無視するわけにはいきません。参考に、
渡辺泰明 『和歌のルール』(笠間書院)
を座右に置いています。
166頁と薄く、簡潔に和歌用語(枕詞、序詞、見立て、掛詞、縁語、本歌取り、物名・・)と、ルールを説明しているので、繰り返し、何度も読んでいます。例示されている和歌が、一時期暗唱しようと努力した百人一首からの歌が多いのも幸いです。
はじめは、これで十分でしょう。
こんな書物も読みました。
高野晴代 『源氏物語の和歌』(笠間書院)
「源氏物語」や「古今集」に手を付ける以前だったので、もう一度、きちんと再読する予定です。
「源氏物語」から「古今和歌集」に至ったわけですが、そもそものきっかけとなった、
山本淳子 『道長物語』(「一冊の本」朝日新聞出版連載)
が、10月号、第13回で完結しました。これに邂逅しなければ、「源氏物語」その他、を読むことは無かったでしょう。
最終回は、娘たち(三条天皇中宮・妍子、尚侍・嬉子、小一条女御・寛子)に死なれ、自らは病魔(その中には、白内障もあります)に冒された62歳の最期が描かれています。
道長が彰子に贈った万感の歌は・・、
「言(こと)の葉も 絶えぬべきかな 世の中に 頼む方なきもみぢ葉の身は」
(時の流れにいつかは途絶える定めなのだろうな。所詮(しょせん)はこの世の中に、すがるところまなく散る「もみぢ葉」、誰もがそんな身なのだから)
「栄花物語」巻三十の歌で、この連載は終わりました。
全くの余談で、思ったのですが、今月、観劇予定のヴェルディのオペラ「ドン・カルロ」に登場する、スペイン王フィリップ2世も同様だったのではありませんか。そう言えば、オペラのアリアって、古典文学の和歌の様な機能があるのでは、と考えました。
光源氏のモデルは道長と言うわけではありませんが、道長の長女・彰子(一条天皇中宮・太皇太后)に仕えた紫式部が、道長の権勢あふれる生活(六条邸なども)に接した経験が参考になっていることは、多分、間違いありません。★
梶よう子『焼け野の雉』 ~ 多くのエピソードを組み合わせ、その中の人間模様、江戸風俗の描写が秀逸で、頁を置けず一気に読了しました。
相変わらず、「源氏物語」と、それに関する参考文献を読んでいます。
橋本義彦 『平安貴族』(平凡社ライブラリー 901)は、平安京の成り立ち、平安貴族の成り立ち(律令貴族から官僚貴族、そして、蔭位制度ーおんいせいどーによる階級化など)と婚姻による皇室への接近史、受領を家司にしての貴族家財政など、平安期の物語の下地を理解するのに役立ちます。もう一冊、
清水婦久子 『源氏物語の真相』(角川選書464)は、当然ながら、源氏物語が書かれた時代と、物語の時代が異なることを改めて踏まえたうえで、モデル探しや、人物総括がされていて、これも有益です。両書をじっくり語りたいところではありますが、最後に写真を載せるにとどめて、本日は、〝息抜き〟に読んだ本が秀逸だったので、こちらをご紹介しておきましょう。
梶よう子 『焼け野の雉(きじ)』(朝日新聞出版)
です。
著者の本は、何冊か読んでいますが、今度は、〈飼鳥屋〉が舞台となっているので、鳥か・・、あまり知らないしな・・、と少し腰が引けて読み出しました。
それが、面白いのなんの。
主人公は、不遇の子ども、少女時代をおくり、長じては逃げた亭主の「ことりや」を、日本橋に近い小松町で守る〈おけい〉です。
ところで、読者の方は、大火災が起こり、逃げなきゃいけない時に、商品である店の鳥たちをどうしますか?
本書は、まず、江戸・神田佐久間町の材木屋から出た火災が、日本橋・京橋・芝・・と、一昼夜、全てを焼き尽くしていきます。地図で言うと、ちょうど、今の、秋葉原から出火し、神田川を越えて一帯を火の海にしていく感じです。
余談ですが、筆者が、ちょうど、目の手術で泊まっていたところあたりです。
そこで、逃げる・逃げない、鳥を置いていく・いかない、人込みをかきわけてどうする・・と、一つのドラマが始まります。
書名は、「焼け野の雉、夜の鶴、梁(うつばり)の燕」、という子どもを守るためなら命をかける謡曲から来ています。
燃え尽くし、たくさんの亡骸(なきがら)累々のなかで、幕府は、火がおさまると「お救い小屋」を江戸11か所に建てます。
簡単な屋根と柱、筵に囲まれた中に、両国の「お救い小屋」では、400人ほどが着の身着のままで非難してきます。一人当たり、筵(むしろ)1枚のスペースで、ストレスも溜まります。
さて、ここで読者なら、自らと鳥たちはどうしますか。ここにも長いドラマがあります。
さらに、主人公〈おけい〉が慕う鳥屋の顧客、北町奉行所定廻り同心〈永瀬八重蔵〉は、妻女を殺した下手人の目当てがつきます。目の前で母を殺され、口がきけなくなった幼女〈結衣〉を避難途中に〈おけい〉はあずかります。結衣は、文鳥のチヨを可愛がっています。
しかし、大火災のなかで永瀬は行方不明になり、消息がつかめません。
もうひとり、永瀬は、何の因果か、妻女殺しの下手人の義兄弟の幼女〈おさい〉を火の中から助け、彼女は、鳥を通じておけいと仲良くなります。
さらに・・、火災の前に、店から老夫婦仲睦まじくカナリヤを買って帰った平井増太郎・季枝夫婦が、ひとずてにカナリヤを返して来た事情を詮索するおけい。驚くべき事情が最後に明かされますが。
(以下、下記の「続きを読む」をクリックしてお読みください。)
引き続き、『源氏物語』の読書が続いています。合間に、『学習院女子と皇室』を読みました。
引き続き、マイペースで、ゆっくりと『源氏物語』を読んでいます。2度目になります。
次は、目もよくなったので、ライフワークとして、原典で読んで行く計画です。
「源氏物語」は、ある意味では、大長編では無く、短編の集まり、したがって、読む順序に決まりはありません。光源氏(六条院)の成長に沿って読むのが一般的ですが、これすら、1桐壷の後は、5若紫・・、と読んだほうが理解できます。
光源氏をふった稀有の女性、朝顔との、なりそめが描かれておらず戸惑いますが、これは、脱落した「輝く日の宮」という帖があったのだそうです。道長の思惑で削除されたとの説もあります。
それはさて、いずれにしても、これだけ恋多い光源氏も、意外につくった子が少ない(夕霧、明石の女御、それに㊙冷泉帝)ことや、出家した女性と恋した女性の娘には手を出していないことに気づきます(例えば、夕顔の娘・玉鬘、六条御息所の娘・秋好中宮)。
これらに関して、源氏物語を読むと、紫式部の想いや平安時代の貴族の生活、和歌に興味が沸きます。そこで、途中で、これまでも、『紫式部日記』など、あれこれ読んできましたが、前者の観点では、
大塚ひかり『嫉妬と階級の源氏物語』(「新潮」所載の連載で、10月号の第10回で完結)、
酒井順子『紫式部の欲望』(集英社)
が参考になります。
前者は、嫉妬、後者は、欲望を切り口に紫式部の執筆心理を想像しています。
貴族の生活に関しては、既述の『大鏡』が、今の政界裏話の様で無類に面白い。以上は、〈参考書〉としてお薦めです。
余談ですが、能に「源氏」からの演目が、「葵上」など10演目ほどありますが、これも、以上のことを知らないでは真に理解できなかったと、改めて思っています。
さて、息抜きに読んだのは、新刊の、
藤澤志穂子『学習院女子と皇室』(新潮新書)
です。
実は、筆者の二男夫婦、その子ども達(筆者の孫たち)皆が、全員、学習院卒業・通学中なので、つい、手が出てしまいました。
本書は、小室夫妻、秋篠宮家の〝騒動〟の分析、昭和天皇皇太子時代の結婚に関する〈宮中某重大事件〉の紹介から入り、学習院・卒業生の歴史を、〈ノブレス・オブリージュ〉を物差しにして述べていきます。本書の著者も卒業生です。
この教育史を読んでいて、直接関係がありませんが、考えたのが、近時批判されることの多い、男女別教育です。
男女別学校は、修身思想とかに発するよりも、むしろ、学習院、津田塾、実践女子大など、近代黎明期に、女性が通える大学を造っていったから結果として女学校が増えたところが大きいのですね。
さて、本書ですが、オノヨーコ、加藤シヅエ、とよた真帆など、意外な多くの卒業生や、外遊による単位不足で進級できず「中退」扱いの上皇、「常盤会」会員誌「ふかみどり」(1910年創刊)などいろいろな興味ある〝知識〟を得られましたが、総体として、大きな山を前に十分な登山が出来なかった感じです。
多くの肝心なところを、他者(学者・卒業生など)の引用文で語らせたり、書物の帯にある宣伝文句の、小室・秋篠宮家問題も中途半端な〝触り〟様で、食い足りません。
本自体が、まるで学習院の様なお行儀の良さで貫かれています。
しかし、まあ、孫たちの通う学校の歴史をきちんと知ることが出来たのは大きな収穫でした。★
白内障を治して初の美術館へ。横尾龍彦と須田剋太の展覧会を鑑賞しました。
白内障を治療して、3週間弱。良く見え、快適です。
書店の書棚が、ぼんやりだったのが、良く見えて、本屋周遊が久しぶりに楽しい。
また、試してみたのですが、テレビの字幕がはっきり見えるので、久しぶりに、BS-NHKで、映画「十戒」の3時間40分をストレスなく観られました。
因みに、この作品は、1956年作品ですから、筆者、60年ぶりに観たことになります。ヘブライ人がエジプトを出て、例の、二つに割れた海を逃げて終わりかと思っていたのですが、その後、神に背いたヘブライ人が40年間放浪して、挙句、モーゼは約束の地に行けなかったなど、迂闊ながら忘れていました。てっきり、海の逃亡で、〈めでたし、めでたし〉かと。
次に、白内障手術後の〈世の見え方〉を試すために、美術館に行きました。
作品や説明を、裸眼や度付き保護メガネで、位置を変えて何度も、いろいろ比較して眺めました。術前とはまるっきり違います。それに、美術館周辺の見事な木々に圧倒されました。
その埼玉近代美術館で、目当てにして行ったのが、横尾龍彦(1928-2015)の初回顧展と、須田剋太(1906-1990)の抽象画展覧会です。
たまたま、「十戒」を観た後ですが、展覧会の横尾龍彦作品の前半は、日本人にめずらしいほどの、宗教画的、神話的な幻想画にあふれていて引き込まれます。むしろ、宗教的、神話的と言うよりも、瞑想によって、心の中を照射しているのでしょう。
後半は、一転して、禅宗の影響が濃い〈円相〉の作品や、抽象画、それもパーフォーマンス公開などです。
もう一つの展覧会の須田作品は、抽象画のオンパレードで、司馬遼太郎「街道をゆく」の挿絵の面影は微塵もありません。この美術館は、抽象画ばかり220点の抽象画を所蔵していて、「街道をゆく」の挿絵など2100点は大阪府に寄贈され、その他の作品410点は長崎市で所蔵しています。
こちらの抽象画も、東洋思想、道元禅への思索が大きい。
上記のポスターに載っている「作品」の、実物の重厚さは、見事なものです。
このフロアでは、常設展も行われていて、随分、有名な作品(セザンヌ、シャガール、ピカソ・・)が飾られていて、素通りできません。素晴らしい所蔵作品があるのですね。
白内障を治して本当に良かった。遠方用のメガネが出来れば、もっと快適でしょう。
徐々に始動はじめている日々です。★
いよいよ決断しました。 詳説「白内障手術」、決断から終了まで。
◆ はじめに
きょうは、『源氏物語』など平安文学の読書と並行して、また、それらを中断した生活の話です。
白内障手術をしました。76歳。
以下に顛末を詳述しますが、はじめに、手術の核心部分の概略を書いておきます。
・ 三井記念病院(東京・神田)で、手術前日からホテルに3泊して、翌日の1日目に「右目」、2日目に「左目」を手術、3日目に経過診断をして帰宅しました。術後は、眼帯はせず、「保護メガネ」です。度が付いています。
・ 目に入れたレンズ(眼内レンズ)は、保険適用の、単焦点レンズの近方用です。術後、日常生活は裸眼で、遠方はメガネをかける生活となります。多焦点レンズは、高価な割に、欠点があるので避けました。
・ 費用は、マイナンバー保険証を利用したので、「高額療養費」は、申請⇒返還の手間なく、その場で計算されるので、手術日に窓口で支払ったのは、18,000円 !のみ。驚きました。
・ 手術は、約2時間前から、簡単な検査と30分程度の看護師説明の後、まず、瞳孔を開く目薬2種類を、15分おきに5回さし、その後、手術室に行って麻酔目薬(あっけないほど簡単に2滴)をさした後、手術は10分弱程度。聞こえる治療の音もごくわずか、痛くも、痒くもありません。
筆者が緊張していた様子なので、脈拍と血圧を下げるシールを胸に貼付されました。
・ 手術後は、20分ほど、看護師から当面の生活の注意を受け、眼帯せずに、「保護メガネ」をして、そのまま帰宅(ホテル)。筆者は、術前の検眼で、ちょうどピタリの「度付き」保護メガネがあったので、遠くもすっきり見えます。これまで見えなかったテレビの字幕も鮮明、裸眼で、新聞も超クリアに見えます。足の爪を切るのもくっきりです。
・ 1週間ほど、日に4回、3種類の点眼をします。生活は、首から下のシャワーのみ。睡眠の時もツルをゴムに替えて保護メガネをしますが、意外と気になりません。
・・それでは、それを詳説します。
(以下、下記の「続きを読む」をクリックしてお読みください。)
『源氏物語』を読みながら、様々な平安時代文学に手を出しています。
8月も今日でおしまい。
相変わらず、『源氏物語』に耽読しています。
参考のために、書斎の書棚から、買い置いてあった『紫式部日記』を取り出して来て読んだことは既にお話ししました。文庫ですが、かつて読んだのか、ボールペンで線が引いてあります。記憶がありません。
その紫式部が、後宮・彰子(しょうし)のいる土御門邸から、実家である〈堤中納言邸〉に里帰りする話があります。
そこは、曾祖父・藤原兼輔(877-933)が建てて100年近くになるのですが、迂闊にも、『堤中納言物語』と関係あるのかと思って、書棚にある同書の文庫を取り出して来ました。
手に取ると、10の短編を〈つつんだ〉(堤中納言など登場しません)珠玉の短編集で、魅かれるものがあって、早速、読み始めることになりました。やはり、この本も一度読んだ形跡があるのですが、覚えていません。身に付いていなかったのです。
物語は、源氏物語の、夕顔や末摘花を彷彿させる物語(「花桜折る中将」)などがあります。
ところで、書架を見ていくと、『大鏡』もあるではありませんか。これも、取り出して読み始めました。
さすがに、『小右記』、『栄華物語』は無かったので、今度、買って来るつもりです。
横道にそれた読書が多くなりますが、けっしてそうでは無く、今回は、平安時代の文学の読書が積極的になり、深化して、真に身について来た、と思っています。
それにつけても、紫式部の後宮勤めの苦労は、現在の会社勤めの苦労とあまり変わらないのに驚きます。
特に、夫を亡くしたシングルマザーで、物語作家で、後宮女房となった紫式部については、〝上司〟道長との仲も疑われています(「尊卑文脈」)。
しかし、最初のうちは、「おいらか」に波風を立てずに過ごしますが、後半は、辛口な批判的意見を(心の中で)随分述べるようになって成長して来ます。
面白いのは、道長の嫌う、定子(ていし)後宮の文化のほうが質が高いと評価していることです。
ただし、その定子文化を牽引する中心人物の清少納言には、ライバル心がむき出しになって厳しい批判(全否定)をしています。
これは、この時代の「三才女」全員に言えることで、和泉式部、赤染衛門(大江匡衡の妻)についても、厳しい評価をしています。
『源氏物語』だけを読むのでは無く、同時代の文学を読むことによって、源氏物語や、紫式部とその時代がよく理解できて、こんどこそ、身に付いている感じがします。
しばらくの、マイペースの投稿をご容赦ください。★
引き続き、『源氏物語』読書中です。
引き続き、『源氏物語』集中読書中です。〈近況〉を書いてみます。
因みに、光源氏の妻で、好印象No1なのは、紫の上。その次は、花散里でしょうか。精読すると、明石の君ではなく、こちらになってきました。また変わるかもしれませんが・・。
「源氏物語」を、一度、読んだのですが、さらに、時間をかけて精読、味わっています。
「源氏物語」の結末は、浮舟の、「もう、男はこりごり」との感じであっけなく終わります。光源氏譲りの薫も、匂宮も、「もう、ええかげんにせんか」(何で関西弁?)と言う印象です・・冗談半分、本気半分。
冗談は兎も角、源氏物語の理解のためには、この時代の、婚姻制度、つまり、通い婚⇒婿取り婚(この時代)⇒嫁入り婚(南北朝室町以降)を知っておくのが必要です。簡単に要点を略述すると・・、
・ 男は、女の家に婿(むこ)として住む、したがって、子育てなど女の家がすべて行います。
・ しかし、同時に自分の本居を持って、そこに世話する召人(次第に愛人的になる)を置いて住んでもよいし、そこに、妻を〈引っ越し〉させてきてもよい。あくまで引っ越しで、嫁入りではありません。また、夫婦別産です。
・ 前記の家は、自分の本居ではなくて親の家でもよい。ただ、親の家の場合は、両親が死んでいるか、隠居している必要があります。かまどの火は家に一つ、であるべきだからです。今と同じ感じ。
・・とう社会です。
月刊「新潮」9月号の連載9回目、大塚ひかり「嫉妬と階級の『源氏物語』」は、浮舟を、「大君の形代の人形(かたしろのひとがた。代わりの人のこと)」として分析しますが、全編を通じて同じような、類似事例があるのに気づきます。
並行して、岩佐美代子『源氏物語六講』(岩波書店)
で、勉強を重ねています。前述した婚姻制度などについてもよくまとめれています。惜しむらくは、いかにも岩波らしく、引用文章が古典原文です。
さらには、紫式部、清少納言も読んだであろう、
『うつほ物語』(室城秀之校訂)
を、簡易な文庫版ですが、読んでいます。
清原俊蔭が波斯国(ペルシャ?)から持ち帰った12の琴(きん)の弾き方の秘伝を、娘が伝授され、さらにその息子・仲忠が、大きな杉の木の下にあいた穴(うつほ)の住みかで、母から伝えられる、代々の秘琴伝授と、一方、左大将・藤原正頼の娘・あて宮をめぐる求婚譚、それに続く皇統争い、が進みます。もう一人の琴の名手・源涼(すずし)も現れます。
涼の持つ琴の名称や、仁寿殿の女御の血統などやや矛盾や不明なところがありますが、読み出すと面白くてやめられません。特に、後半の皇統争いは、多くの伏線も張られていて、源氏物語には無いスリリングさが満載です。
余談ながら、清少納言と定子の「涼・仲忠論争」(定子は、仲忠のうつほでの育ちの悪さを言い、清少納言はそれを否定します)や、涼の猛勉強姿から、改めて、「蛍の光」の歌詞〈蛍雪の功〉についての知識なども得られました。
まさに、源氏物語を彷彿する平安の風景が語られています。
さて、合間に、発売時点から読もうと思っていた、
ルシア・ブラウン・ベルリン『掃除婦のための手引書』(講談社)
を読んでいます。1936-2004年(68歳)に生きた、作家の短編集です。
チャーミングで知的な著者の写真ですが、実は、脊椎側弯症が悪化して、酸素ボンベを持ち歩き、肺がんにも侵されました。実生活では、祖父・母・叔父さらに自らもアルコール依存症に苦しみ、3度結婚、離婚し、4人の子どもをシングルマザーで育てます。
その私小説的な物語を、私小説らしく無く、突き放してクールに、しかもユーモアを持って描いていきます。
「それには、こんなわけがあるんです」、と始まる、昔の回想には、普遍的な人生を感じざるを得ません。
ここには、アメリカ社会の貧困、人種差別、宗教(カソリックとプロてえスタント)対立、家庭問題、学校でのいじめ、細かいとところではコインランドリー店などの汚さまで・・底辺の、様々な〈風景〉を、根こそぎ掬い取った感があり、普通、知ること出来ないような、〈知識〉が得られ、印象に残ります。
著者が経験した、清掃婦から教師、電話交換、看護助手・・などあらゆる職業が下敷きになっていますが、先述の様に、人生をリアルに、書いてはいるのですが、突き放したクールさとユーモアがあふれていて深刻になりません。その社会的是非はおきますが。
作者と作品が有名になったのは、死後、2015年からというのが、残念ではあります。
筆者は、日比谷シャンテの、今は無くなったの書店の棚で、最初、本書を見つけた時は、面白い書名で、インパクト強く魅かれ、その後、訳者・岸本佐知子氏が、絶賛したり、本屋大賞などいくつかの賞を受けて評判になりましたが、やっと、読み出しました。もっと、早くに読むべきでした。★
『源氏物語』読書継続で、引き続き、ブログ「休み中」です。でも、息抜きの読書もしています。
引き続き『源氏物語』の読書を続けていますので、恐縮ですが、まだ、ブログは「休み中」です。
休んでいるにもかかわらず、50人ほどのアクセスがあること、その併走に心から感謝申し上げます。
これだけ「源氏」に集中していても、読んでいて、まだ、係累関係に迷う女性がいますが、それでも、あらかたは頭に入りました。
例によって、平行して、山本淳子「道長ものがたり」(「一冊の本」所載)も読んでいますが、その中の逸話、道長の異母妹で、三条天皇の四人の后の一人である綏子(すいし)の密会が疑われたときに、「調べてまいりましょう」と言った道長は、綏子のところに行って、やわら着物の胸元を左右に開くと、乳房を握ります。とたんに、道長の顔に母乳がほとばしり、密通・妊娠の事実がわかった・・、など(「大鏡」)、この時代のことを集中して読んでいると、驚くことがまだ多くあります。この話、医学的には、あり得ないそうです。
さて、「源氏」読書の息抜きに、宮部みゆき『ぼんぼん彩句』を手に取り2話読み始めました。
稀代の物語作家らしく、句会の俳句からイメージした短編12話が載っていて、これもシリーズ化されるようですが、読んでいて引き込まれるほど上手いのですが、失礼ながら、もう、少々飽いてしまって、途中で読むのを止めてしまいました。御免なさい。
そういえば、「三島屋変調百物語」のシリーズ九「青瓜不動」、が出版されました。ま、少し経ったら読むかも。
それよりも、もう一冊、面白くて、「源氏読書」を中断してしまったのが、
中川右介 『社長たちの映画史 映画に賭けた経営者の攻防と攻防』(日本実業出版社)
です。540頁の大著。
東京(あるいは大阪)の街を歩くと、日比谷映画街、帝劇、日劇、松竹本社など、本書に登場する強者たちの往時の風景が目に浮かびます。
また、筆者の幼年期の思い出から、当時の〈謎〉が解けました。
小学校5年生頃だったか(筆者、現在76歳)、当時、学校帰りに友人と「嵐を呼ぶ男」の話をしていたこと。
本書を読むと、それは、よくテレビで見かけた、ターキー(水の江滝子)がプロデュースした作品だったとか、
NETテレビ(現テレビ朝日)は、なぜ〈日本教育テレビ〉という名称だったのか、それに関係して超人気番組「ララミー牧場」は、米国文化啓発番組に位置付けれていたとか、
「加賀まりこ」の父親はプロデュサー、叔父は日活常務だったとか、歌舞伎役者は映画役者の長谷川一夫を「泥(どろ)役者」(板の上で演じるのでは無いから)と軽蔑したとか、初期の街頭テレビは外車輸入商の「ヤナセ」から買ったテレビだったとか・・、読んでいて感慨深い。
(以下、下記の「続きを読む」をクリックしてお読みください。)
引き続き「源氏物語」読破「休み中」の近況です。
引き続き、『源氏物語』読破で、ブログを「休んで」います。
「源氏物語」も、後半、源氏死後の「宇治十帖」(因みに、「宇治」は、「憂し」の掛詞です。)になると、固有名詞が、「〇〇の宮」と言うのが多くなり、親はだれだっけ・・、と前の頁を繰ることが多くなります。しかし、このあたりになると、源氏周囲の個性ある魅力的な女性が何人か印象に残って来ます。
源氏は、花散里と紫の上という二人の女性が支えて来ましたね。いずれにしても、「源氏物語」は、ゼッタイに再読しなければ身につかない様に思えます。むしろ、再読から余裕を持って味わえるように思えます。
したがって、このブログの「お休み」は、思った以上に長引きそうですので、悪しからず・・。
ここで、書評で、気になっている新刊を読み、少し、息抜きをしました。
岡田暁生 / 片山杜秀 『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書)
です。
面白い書名ですが、「ごまかさない」とは、例えば、子どもから発せられる素朴な、それでいて答えにくい質問に対して、大人が、何となく答えを取り繕って、その場を過ごしてしまう、この様なことの無いこと、と言えるでしょうか。
また、「クラシック音楽を聴く」とは、「近代社会の欺瞞と矛盾を理解すること」と結論づけられます。
活躍し盛りの二人の碩学が、本音で、遠慮無く、クラシック音楽の歴史背景を縦横に語り尽くして、決まりきった通説とは異なる見解を提示していく、まことにスリリングな対談集となっています。
普通の本では、あえて触れず、また、識者はあえて今更言わないので、読者は気づいていない話題で充溢しています。
対談が面白いのは、語り手の種々の知識、思っている本音、考えている好悪、暴走する余談、時には思い付きの様に、てんこ盛りで、遠慮なく出てくるからです。その点で、前記と合わせて、理論的に、筋道を立てて論証していく書物よりも数倍の知識やアイデアを得ることができます。
特に、音楽の持っている政治的意義や風土の解明をおろそかにしないところは貴重です。
なぜ、通説の音楽史は、バッハ(「音楽の父」)から始まるのか、その前の千年以上の古楽の世界は、なぜ、飛ばされたのか、から始まり、ハイドン、モーツアルト、ベートーベン(「クラシック株式会社の創業者」)等を経て、ワーグナー(「ロマン派のブラックホール」)の大きな存在感を、そのリヒャルト・シトラウス、グスタフ・マーラーへの影響も分析し、マルクスの「資本論」にも触れて、最後、近時のロシアのウクライナ侵略を頭に置いて、シェーンベルクやストラビンスキーでクラシック音楽がとどめを刺されるまでが語られます。
終盤に至ると、「屋根の上のバイオリン弾き」とウクライナの話や、多く語られるロシアの話が、現下の情勢を理解するに役立つところも思わぬ収益です。
「砂の器」の原文の話など、あらゆる興味ある話題が、怒涛の語り、となっています。
先述したごとく、肩ひじ張った理論書では語られない話や、語られていても気を付けないと注意をはらわない話が、また、あまり書くことに遠慮がある現代音楽家の来歴・人物評なども、露骨に、遠慮会釈無く、声高に述べられていて、これまでの知識を再編成するのに有益な書物と言えましょう。
類書の無い興味尽きない書物でした。お薦め。★
近況。引き続き「源氏物語」に浸っています。「読む」とは、深く考えること。
引き続いて、ブログを「休んで」、『源氏物語』の読書を進めています。
合間に、『紫式部日記』も読んでいます。
再び、少し近況を。前回、月刊文芸誌『新潮』6月号の「7つの視座で読む村上春樹新作」に触れましたが(各執筆者が、何を言いたいのかさっぱり不明でした)、同誌に、
大塚ひかり「嫉妬と階級の『源氏物語』」
が連載(214頁)されています。
この連載を読むと、「源氏物語」を、流れに沿って、前に、前に、読み進めるだけではなくて、登場人物の心理を、マクロな環境から眺めて考えてみることの重要性を悟ります。
今回の話題は、源氏の正妻となる朱雀院の愛娘である女三の宮に対する紫の上の心理(嫉妬)を、似た、玉蔓を好いた髭黒に対する妻の北の方の心理(嫉妬)を比較して、また、その前に源氏が魅かれたたがソデにされた朝顔、空蝉、源氏のほかの妻たち(「他御方々」)である、明石の君、花散里、末摘花などと比較して、「数ならぬ身」(大貴族と比較して劣る受領(ずりょう)の娘)いうキーワードを遣って、身分のあるなかでの恋愛、嫉妬心理の分析をします。
嫉妬深い女は、「指食いの女」などと記されています。因みに、浮気な女は、「木枯らしの女」。
なお、これに関連して、道長以外の兄弟は、受領から妻を得ているのですが、道長は貴族からです。
しかし、紫の上を、作者・紫式部は、同情と共感では無く、反発と敵意のこもった眼差しでで書いているのが興味を引き立てます。このあたりを読み込む、「読む」、とはこのようにじっくりと、考えつつ味わうことなのだと改めて感じ入ります。
ですから、「源氏物語」を「読む」と言うのは骨が折れます。
余談になりますが、「新潮」では、「追悼 富岡多惠子」の、黒川創「ひとりで立つ覚悟」に、心を打たれました。
特に、葬式の会葬者がわずかで、なかでも、出版関係者がいなかったと言うのも、年を経て、多くが定年退職したとは言え、寂しい限りで、紫式部ではありませんが、世の中の寂しさを考えてしまいます。
さらに・・、同書の第47回川端康成文学賞受賞作品、滝口悠生『反対方向行き』、が、読むのを止められないほど面白かった。しばし、「源氏物語」がお留守になりました。物語は、逆方向行の列車(湘南ライン)に乗った主人公の、列車の中で浮かぶ家族の回想です。ところで、この賞の選者の「講評」のほとんどが、ストーリーの紹介なのはいただけない。つまらない。
「源氏物語」から、しばし、脱線した読書と相成りましたが楽しかった。★